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山形県大石田町豊田

2014/03/19取材

 

この地の観音堂の本尊は、聖徳太子の作とされる聖観世音像である。現在の堂宇は元文元年(1736)に建造されたもので、。最上三十三観音霊場第27番札所となっている。

昔、都の安戸見一尾という人がこの尊像を持っていたが、その子孫が没落したため、朝夕のお勤めも思うようにならなくなった。そのため、不敬に取扱うことを心配して比叡山に奉納した。その後、安戸見一尾の子孫である川辺市正という武士が、祖先が崇拝した仏であることを知り貰いうけて守護仏とした。さらに長谷川盛易の手から大和の国橘寺に納めた。

続いて、大阪夏の陣の時、九鬼一之進がこれを頂き戦場に出むいた。九鬼はこの仏を松永弾正に譲ったが、松永家は徳川幕府に仕え数代の後に浪人となり、奥州白河に住んだ。その子孫が山形市外の古館に住み、尊像は大竜寺に安置された。

当時、深堀にあったこの観音堂から観音像が何者かに盗み去られ、村人は適当な仏像を探し求めていた。そのような時期の正徳6年()、大石田立光庵の海存坊が、大竜寺にある尊像を譲り受け、深堀観音堂の新たな本尊とした。

江戸期には神仏混淆の観音堂として人々の信仰を集めていたが、明治維新となり、神仏分離令が布告され、各地て仏像が破損されるなどの廃仏毀釈運動が起きた。この観音堂でも、修験宗の清行院住職法印は神官となり、観音堂と断絶し、観音堂は村民により交代で守られてきた。

明治期の廃仏毀釈の運動から隠すためだったのだろう、ここの尊像は、天井裏板の上に安置してあり、屋根換え工事の時でなければ開帳されない。