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山形県新庄市松本

2015/09/14取材

 

最上地方は、元来冷害を受けやすい地で、江戸時代の宝暦5年(1755)、天明3年(1783)は、大凶作となり、多数の領民が食べ物を求めて新庄城下に集まり救いを求めたが、餓死する者が続出した。

死者は金沢の接引寺に埋葬されたが、あまりにも死者の数が多く、この角沢街道にも埋葬せざるを得なかったという。古文書には、この宝暦飢饉について次のように記されている。
「だんだん死人が多くなり、その捨て場がなく、松本村の東、角沢(つのざわ)街道に、深さ1丈5尺、巾9尺の穴を掘り、毎日ここに死体を捨てたが、その有様は目をそむけるばかりの悲惨さであった」

この丸仏は、亡くなった人々を供養するため、61回忌と33回忌に当たる文化13年(1816)に建てられた供養塔である。正面に梵字で「光明真言」、裏面中央に「南無遍照金剛」とあり、左右に建立の趣旨が刻まれている。

その脇の「餓死聖霊位」と書かれた供養碑は、明和7年(1770)に松本村が建てたもの。

今に伝えられる新庄まつりは、この宝暦の大飢饉の際に、時の藩主が領民を励ますためにはじめられたとされている。