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山形県遊佐町上蕨岡字松ケ岡

2015/08/25取材

 

龍頭寺は遊佐町の東南端、国道345号から少し入った鳥海山麓に位置する。鳥海山の山麓には蕨岡、吹浦、矢島、小滝など多くの修験の根拠地があったが、蕨岡衆徒はその中でも最も大きな勢力を持ち、上寺(うわでら)と通称される丘上に居住して大衆(だいしゅう)とも呼ばれた。近世では「蕨岡三十三坊」と称して一山組織を形成して勢力を誇り、龍頭寺はその学頭寺だった。

平安時代前期の大同2年(807)に、慈照上人が開創したと伝えられる。古くは十一面観音を本尊とし、松岳山観音寺光岩院と称し、出羽鳥海山大物忌神社表口塔中三十三坊の本寺で、別当学等を務めていた。その後、江戸時代初期の明暦元年(1655)以降は、鳥海山の本地仏である薬師如来を本尊とし、鳥海山龍頭寺と改称した。

平安時代の貞観2年(860)、慈覚大師が、龍の形をした飽海嶽(鳥海山)に登り、その地に住んでいた仙翁と龍翁という青鬼と赤鬼を封じ、その山の頭に当たる場所に権現堂を建てた。この伝承から寺号を龍頭寺としたとされる。

日本は、仏教を受け入れ、古くからの神の信仰と仏教が融合し、平安時代頃から「本地垂迹」の思想から、神は本地である仏が、衆生救済のため、仮の姿でこの世に現れたものとされ、汚れを祓う斎主神の鳥海山大物忌神は、その本地は薬師如来で、鳥海山大権現とした。

鳥海山の衆徒は、南北朝期の14世紀頃より修験道と関りを持ち、なかでも蕨岡衆徒は、17世紀の江戸時代初頭までは羽黒修験に属していたが、慶長18年(1613)の幕府の修験法度により、蕨岡衆徒は真言系となり、さらに貞享元年(1684)に正一位となった。

鳥海山修験集落のうち、蕨岡は山上の支配権を有し、神領168石ほどの蕨岡三十三坊は、慶長17年(1612)に最上義光より寺領89余石が寄進され、さらに庄内藩領になってからは、酒井家から祈願寺として禄270余石を受け、寺紋に酒井家の家紋を許された。

しかし鳥海山登山口の修験集落同士は、信者獲得や峰争いを度々起こし、江戸中期の元禄11年(1701)には、権現堂修復に端を発し、蕨岡衆徒と矢島衆徒は山上権を争い、また宝永年中()には、吹浦衆徒と本家争いが起こったが、蕨岡は改めて別当に補任された。

明治に入り新政府は神仏分離令を出したことで、蕨岡は龍頭寺を除き還俗し、龍頭寺も衰退した。この神仏分離令により蕨岡と吹浦の間に山上権争いが再発したが、明治13年(1880)に蕨岡と吹浦を口宮とし、山上社を本社とする三社連帯社となり現在に至る。

現在、本堂入り口に、インド風の作りの珍しい仁王像が立っている。この仁王像の股くぐりをすると、はしかの快癒や無病息災にご利益があるといわれている。