山形県遊佐町上蕨岡松ケ岡

2015/08/25取材

 

大物忌神社の本社は鳥海山の山頂にあり、矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所の登山口ごとに口の宮があり、鳥海山そのものをご神体としている。鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽の山岳信仰の中心として、山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地の諸地域など、周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。

それぞれの口の宮の本社は鳥海山山頂にあり、山体をご神体とし、祭神も大物忌神としている。しかし由緒等については、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しており、また、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、各登山口ごとに異なる伝承が伝わっている。

この蕨岡口の宮の社伝では、第十二代景行天皇の御代(71~130)この国に現はれ、 第二十九代欽明天皇25年(5641)に鳥海山上に鎮座された。其の後貞観4年() には官社に列し、国家の祀典に預り延喜の制には、月山神社と共に名神大社の待遇を受け、出羽一ノ宮として朝廷の崇敬も篤く、度々叙位叙勲があり、元文元年()には正一位に叙せられた。

この蕨岡に伝えられる縁起では、役行者がはじめて山に登ったとき、山上にあって霊鳥が生息する「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。また天武天皇の御代(673~86)のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し開山したとされ、山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという。

古くは東北地方は蝦夷が支配していた地で、大和勢力の拡大とともに、この地には南方を追われた蝦夷が群居していた。大和勢力にとって、原生林に覆われ、常に噴煙を吐き、時々大爆発する鳥海山の存在は脅威だった。日本での古くからの山岳信仰を背景とし、朝廷は鳥海山の爆発が蝦夷の怒りと相関していると考えていたようだ。

貞観13年(871)5月の、出羽国司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こった」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている。

古くは「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。これは、斎戒しこの山の不吉不浄を忌むことで、蝦夷の兵乱も鎮めることができると考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると考えられている。天慶2年(939)4月、秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が朝廷に到達した際、朝廷で物忌が行われた。またこの時に、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。

この時期からすでに出羽にも仏教が進出し、神仏習合が始まった。従来の唯一神道を以って奉仕する社家と仏式を以って奉仕する社僧に別れていたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退し、中世には鳥海山大権現と称し、明治の神仏分離によって大物忌神社に復すまで、社僧が奉仕をしていた。

延長5年(927)には式内社、名神大社とされ、祭祀料2,000束を国家から受けている。当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥塩竈社、伊豆三島社、淡路大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。

この地に関わる武将の崇敬も篤く、前九年・後三年の役には、八幡太郎義家が戦勝を祈願している。鎌倉期には幕府が遊佐町北目の地頭に社殿の修造を命じている。また南北朝時代の正平13年(1358、延文3年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍の北畠顕信が、南朝復興と出羽国静謐を祈願し、神領としてに由利郡小石郷乙友村を寄進している。

鳥海山信仰においては、それぞれの登り口ごとに、縁起などが異なり、争いのもとになった。山形側の吹浦と蕨岡でも「出羽一の宮」を巡る争いが起きた。吹浦口の信徒は、蕨岡の信徒が行っていたような鳥海山中での修行は行わず、山上に祀られている鳥海山大権現を、月山大権現とともにふもとに勧請し、両所宮として祀り、山頂の権現堂には関与しなかったため、蕨岡の信徒に比べると勢力的に弱かった。蕨岡の宗徒社人は、山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕していた。この考え方の違いが、吹浦と蕨岡が互いに反目する原因となっていた。

藩政期に入り、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。明暦元年(1655)に、吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこととし、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であることが確定した。この様な争いは、庄内藩の蕨岡と矢島藩の矢島の争いにもいたり、両藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされ、現在も山頂部は山形県遊佐町に属する。

江戸時代は神物混沌となっており、蕨岡は龍頭寺に於て社僧奉仕するところとなっていたが、明治3年()の神仏分離に際し、神式を以て奉仕することと なり明治13年()、鳥海山上を国幣中社大物忌神社の本殿 として蕨岡及吹浦は口ノ宮として定められた。

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