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山形県遊佐町吹浦

2015/08/25取材

 

鳥海山は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山である。玄武岩ないし安山岩の溶岩からなる富士山型の成層火山であるが、火砕流、降下軽石、火山灰などの噴出は少なく、主に溶岩流により形成された山である。北側から西側にかけては側火山や火口、さらには河川による侵食で、複雑な山容を示している。新旧2つの二重式火山が複合したもので、侵食の進んだ「西鳥海」と新しい溶岩地形をもつ「東鳥海」とからなり、それぞれに中央火口丘と外輪山がある。

山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士とも呼ばれ親しまれている。広く秋田県や山形の庄内地方から望むことができ、秋田富士、庄内富士などとも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属し、日本百名山、日本百景に数えられている。山頂からは、北方に白神山地や岩手山、南方に佐渡島、東方に太平洋を臨むことができる。山頂付近には、夏も溶けない万年雪があり、かつての氷河の痕跡であるカール地形が存在する。

紀元前466年には大規模な山体崩壊を起こし、岩石や土砂が現在のにかほ市に堆積して象潟の原型を形成した。象潟付近の九十九島は、このときの噴火で形成された流れ山で、形成当時は海中の小島であったが 、(1804)の象潟地震により隆起し特徴的な地形となった。敏達天皇7年(578)、和銅年間(708〜15)、養老元年(717)にも噴火したことが伝えられており、鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考えられる。(1801)にも噴火し、その際に生じた溶岩ドームは、東鳥海山の新山として現在も残っている。

鳥海山は日本海に裾野を浸した秀麗な山容を持ち、多くの噴火によって畏れられ古くから山岳信仰の対象となった。豊富な湧水は山麓に農耕の恵みをもたらした。中世後期以来、徐々に修験道の修行場となっていった。江戸時代中期には登拝講が山麓に成立し、夏には多くの道者が登拝した。根拠地であった蕨岡は三十三坊を擁し龍頭寺を学頭とした。鳥海修験の山岳信仰の根底には、山を水分(みくまり)とする水への信仰があり、流れ出す川は月光川と日向川と名付けられて神聖視された。鳥海山へは、南は蕨岡と吹浦、北は矢島、滝澤、小瀧、院内などから登拝道が開けていた。

この山は古くは「大物忌神」の名で登場し、度々神階の陞叙を受けている。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、蝦夷の反乱と噴火に対してのものと考えられ、また大和朝廷による蝦夷征服の歴史から、蝦夷の怨霊を鎮める意味があったと考えられている。
承和7年(840)には、大物忌神が、雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて、敵の撃退に神威を表したとし、大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙している。

また、貞観13年(871)の出羽国司の報告で、「去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810〜24)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった」とある。この報告を受けた朝廷は陰陽寮で占いを行ったところ、報祭を怠り、また冢墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったもので、このままでは戦乱が起こる、と言う神託が出た。そこで朝廷は奉賽を行い、神田を汚している冢墓骸骨を除去せよと国守に命じたという。

その後も、元慶8年(884)にも噴火があり、「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述があり、仁和元年(885)にも「6月21日、出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃が振った」との記述が見られる。また、天慶2年(939)4月に「大物忌明神の山が燃えた」との記述があり、これが中世では最後の噴火の記録となり、以後数百年間は噴火の記録はない。

鳥海山は、山そのものが「大物忌神」と呼ばれていたが、鳥海山と呼ばれるようになった由来は定かではない。鎌倉時代の『吾妻鏡』では「北山」と呼ばれており、鳥海山という名が文字として確認できる最古のものは、暦応5年(1342)の、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に見えるという。また、永正7年(1510)の羽黒山の記録に「本宮大権現、欽明天皇七年丙寅年、飽海嶽に出現。今の鳥海権現是也」とあり、これから考えると、鳥海は権現号で山号は飽海嶽となる。山号を鳥海とする記録は近世になっても見当たらないが、この権現号の「鳥海」からのものと推定できる。

江戸時代以降、蕨岡と矢島は真言系の修験となった。山形県側は、明治初期の神仏分離の激動を経て、大物忌神社は、山麓に吹浦と蕨岡の二つの口の宮、山頂に本社を祀る形式をとることになり、大物忌神社は、出羽国一宮として崇められてきた。

蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測できるが、秋田県側の矢島方面の修験道が古い由緒を持っているとされる。各登山口の修験者は、その伝統の違いから、互いに反目・対立するようになり、江戸時代には修験者同士の争いが、矢島藩と庄内藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされ、現在も山頂部は山形県遊佐町に属する。

近世に入り、再び鳥海山の噴火が史上に現れ、特に享和元年(1801)の噴火では、溶岩ドームの新山(享和岳)を生成し、火山弾により8人の死者を出した。

酒田市の沖に浮かぶ飛島は、鳥海山から飛んできた島だという次のような伝説がある。

昔、大きな鳥が3つの卵を抱え飛んできて鳥海山の頂上に巣を作った。暫く経つと、鳥海、月山両所大菩薩と丸子親王が生まれた。この大きな鳥は地域の先祖となり、荒れ地を耕させ、米を作らせた。その後、北の方の嶺の大きな池に沈み、それからその池を「鳥の海」と呼ぶようになった。だからこの地の人は鳥は食べず、また丸子親王の子孫は鳥を家紋にした。

この山に、手長足長という毒蛇がおり、それを知った神様が山に見張りを置くことにし、木に鳥を置き、毒蛇が出れば「有耶」、居なければ「無耶」と鳴かせて旅人に知らせた。それからというものそこを有耶無耶の関と呼ぶ。

ある時、鳥海山が自分より高い山はないだろう、と独り言を言った。ある日、旅人が鳥海山にやってきて、眺めながら立派な山だが富士山の方が高い、と呟いた。すると鳥海山は威張っていたのが恥ずかしいやら悔しいやらで、頭だけがボーンと飛び出し、それが日本海に落ち今の飛島となったという。そのため、飛島と鳥海山は離れていても同じ神様を祀っており、飛島の小物忌神社と、鳥海山の大物忌神社と対をなしているという。