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山形県鶴岡市湯田川

2012/03/30取材

 

この地には、庄内に移った新徴組の本部が置かれた。

新徴組は、文久3年(1863)に結成された浪士組である。将軍徳川家茂上洛の警護を目的とし募集が行われた。しかしこれは、尊王攘夷派の清河八郎の策略であり、京都へ上洛すると、清河は浪士組の目的が将軍上洛の警護ではなく、尊王攘夷を実行する先鋒となることを唱える。これに同意した者は、清河八郎に率いられて江戸に戻るが、同意できなかった近藤勇や芹沢鴨など24名は、袂を分かち壬生浪士組を経て新選組を旗揚げすることになる。

清河が暗殺されると清河の同志達も次々と捕縛され、浪士組は組織目的を失った。幕府は浪士組を新徴組として再組織し、高橋泥舟と山岡鉄太郎が取締責任者となった。結成以来狼藉の振る舞いも多かったが、幕府より江戸市中警護、海防警備の命令を受けると規律を取り戻し、元治元年(1864)に、庄内藩預かりとなった。

この頃から江戸では、薩摩藩を中心とした尊王攘夷派が、江戸市中で乱暴狼藉を働き、しきりに幕府を挑発していた。市中警護の新徴組はそれらを取り締まったが、慶応4年(1868)、庄内藩は品川の江戸薩摩藩邸を襲い焼き討ちにした。これがその後の戊申戦争の発端になった。

同年勃発した鳥羽伏見の戦いでは、結局幕府軍は敗れ、西軍は江戸に攻め上り、江戸城は開城した。庄内藩主酒井忠篤は江戸を引き払い国許に戻り防備を固めた。このとき、組士136名とその家族311名が、庄内に移住し、藩では湯田川温泉の宿屋と、民家37軒に分宿させ、二年間ほど居住した。

この隼人旅館には組役所が置かれ、鶴岡城から係役人が出張して監督に当たっていた。西軍は越後街道を北上し、8月23日には藩境の鼠ヶ関口で戦闘が始まり、小名部口踏切峠、関川口でも激戦になった。恐らく新徴組も、これらの藩境の戦いを戦ったと思われる。しかし9月27日に庄内藩は降伏、庄内藩の戊辰戦争は終結した。

その後明治3年(1870)、藩では新徴組のために、鶴岡城下大宝寺地内に百棟の住宅を建て、新徴屋敷と称し一同を住居させることになった。また、明治5年からの松ヶ岡開墾には65名が、旧藩士3千人とともに参加したが次々と離脱し、現在、組士の末裔は3戸が残っているのみである。