山形県鶴岡市田川高田

2012/03/30取材

 

田川館は、大山川東岸の、比高5mほどの段丘上に築かれ、大山川を外堀に見立て、東、北、西側は、当時は段丘崖で仕切られていたと思われる。大手口は東側に構えられ、堀に「椽側の橋」が架けられていたとされる。現在は小学校の跡地となっており、かつては土塁が残っていたが、学校建設によって消滅し、遺構は見られない。

平安時代後期、陸奥、出羽の二国は、平泉藤原氏の強力な支配下に置かれていた。この地は、古代より日本海岸の主要な交通ルートであった越後街道の庄内側出入り口にあたり、文化的にも重要な拠点として、当時は庄内地方の中心であった。

この地を支配した豪族の田川氏は、藤原氏の始祖の藤原清衡からの一族とされ、清衡から田川郡司に任ぜられこの地に館を構え、領主として勢力を誇っていた。田川氏は、承安2年(1172)、藤原基衡の命を受け羽黒山本社を修築した。

築城年代は定かではないが、平安時代末期に、奥州平泉の藤原清衡から田川郡司に任ぜられた、藤原氏の家臣の田川太郎行文によって築かれたと伝えられる。文治3年(1187)、源頼朝に追われた義経が弁慶らを率いて海路鼠ヶ関に上陸し、越後街道を通り庄内に差し掛かった折に、三瀬川の増水のため、この地に二、三日逗留したが、そのとき田川太郎の依頼により、息子の病気平癒の祈祷を行ったと伝えられる。

文治5年(1189)、鎌倉の源頼朝は、義経を匿った藤原氏の罪を責め、28万4千の大軍を発して奥羽征伐を断行した。頼朝の率いる本隊は白河関から北上したが、比企能員、宇佐美実信を大将とする別動隊は越後路を進み、鼠ヶ関から庄内に侵入した。これを迎え撃ったのが田川太郎行文と秋田三郎致文であったが、精強な鎌倉軍に敗れ、両将は討死した。田川行文の墓と伝える大きな五輪塔が南の蓮花寺集落に残されており、また蓮花寺橋の手前には、田川行文の討死を聞いた家臣たちが自刃して果てたと伝えられる場所があり、宝篋印塔が残っている。

その後、田川氏は鎌倉幕府から旧領を安堵されたが、鎌倉末期 大泉荘に下向した武藤氏に敗れ没落したと伝えられる。

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