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山形県米沢市万世町堂森

震災前取材

 

善光寺は、宝暦13年(1763)、明治26年(1893)両度の火災により記録は焼失しており、その由緒は定かではない。しかし伝承によると、大同2年(807)善光寺は善光寺阿弥陀堂の別当寺として開山されたという。

建久3年(1192)、長田庄司将次の妹の益王姫(ますおうひめ)が中興したと云い、善光寺が所蔵する「見返り阿弥陀如来」の像には、この益王姫の伝説が残る。

長田庄司将次が源頼朝との一戦に敗れ、妹の益王姫は尼となり、家に伝わる阿弥陀像を背負って逃れた。

苦しい旅を続けようやく出羽まで逃げてきたが、追手に追いつかれ発見されてしまった。するとこのとき、背中に背負った阿弥陀像が、突然振り返り追手をにらみ追い払ったと云う。

助かった益王姫は、ここ堂森に庵を結び、振り返った姿となった阿弥陀像を祀ったと云う。

この見返り阿弥陀像は大変珍しく、「還り来迎の弥陀」を現したものと云われる。往生者を迎えに来迎した阿弥陀仏が、極楽浄土に導く際、後ろについて来たかどうか確かめるため振り返ったと云われている。

その後中世には、この地の地頭職の長井氏により庇護された。

長井氏は、鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖としている。大江広元は、鎌倉幕府の創設、行政機構の整備に大きな役割を果たし、頼朝により置賜郡長井荘、村山郡寒河江荘などの地頭職を与えられた。広元は寒河江荘を長男の親広に、長井荘を二男の時広にそれぞれ分与した。時広は長井を称して長井氏の祖となりこの地を支配した。善光寺は長井氏と深いつながりがあったらしく、長井時広夫妻の座像を所蔵している。

江戸時代にはこの地は上杉氏が支配するところとなり、この堂森には上杉景勝の家臣になっていた前田慶次が住まい、境内には慶次の供養塔もある。