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山形県米沢市丸の内一丁目

震災前取材

 

色部信濃守久長は、米沢藩の家老で色部長門として知られている。

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争では、色部長門は、薩長を中心とした新政府軍が北陸道を北へ進軍する中、奥羽越列藩同盟にとって物資の補給に大変重要な新潟港を守るため総督として新潟港を警備した。

色部長門は、米沢藩兵600を引き連れ、新潟市西堀の光林寺に本陣を置いた。

新政府軍は海上などから猛攻をかけ、新潟の町は焼け野原になり、これ以上の町の被害拡大を懸念した長門は兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、自ずからは生きながらえる選択をせず、僅か数名の兵を引き連れ新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込み、奮闘するも被弾し、近くの茄子畑で割腹し果てたと云う。享年44歳。

戦後米沢藩は、四万石を召し上げられる処罰を受け、新政府軍より一連の戦犯について調査を命じられた。苦慮した結果、既に新潟の地で死亡している家老の色部を戦犯として届出をした。奥羽越列藩同盟の中心的存在であった米沢藩を改易するべきとの意見もあった中、藩主茂憲らの働きかけにより、最終的には、奥羽諸藩では戦犯者が処刑される中、米沢藩では処刑される者を出さずに済んだ。色部家は家名断絶されたが、明治16年(1883)に許されたという。

この碑は、昭和38年(1963)、戦犯として米沢藩の責任を一身に背負い汚名を被ったことで、米沢を守った功績を称え建立された。また新潟の色部長門の絶命した地にも、新潟の町の被害拡大を救ったとして追念碑が建てられている。