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山形県米沢市林泉寺一丁目…林泉寺

震災前取材

 

武田信清は武田信玄晴信の六男(七男説も)で、母は信濃小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人と云われている。

永禄10年(1567)、法善寺で僧籍にあったが、兄の勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の安田氏の名跡を継承し、安田三郎信清と名乗り、海野城の城主となった。当時、武田勝頼と上杉景勝は同盟関係にあり、異母姉の菊姫は、景勝の正室だった。

天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、信清は僧姿に変装し高野山に逃れ、後に菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓した。上杉景勝は名門武田家の流れをくむ信清を大事な家臣として迎え、3千石の知行を与えた。その後、上杉家の移封に伴い信清も会津、米沢と移り、米沢藩時代には、藩主親族とし高家衆筆頭として1千石が与えられた。

寛永19年(1642)3月、80歳で没したが、子孫は代々高家衆筆頭として米沢藩に仕え、幕末に至る。