山形県朝日町三中

震災前取材

 

別名:五百川城、八ツ沼館

八ツ沼城は、南北朝期に南朝方の武将が若狭からこの地に移り築城したのが始まりと伝えられる。しかし、北朝方の山形城主斯波兼頼により滅ぼされた。

その後、文明年間(1469~87)、敦賀城主の原美濃守頼貞が戦いに敗れ、この地に逃れ、この城を整備したとされ、城主は代々原美濃守を称していた。戦国時代後期の永禄8年(1565)、山形城主最上義光により攻め滅ぼされるまで続いたと伝えられる(異説あり)。

標高280m、比高110mの丘陵となっており、村山、置賜地方を結ぶ要地にあたる。東は最上川に接し、西の春日沼側は急峻な崖となっている。城域は定かではないが、現在の三中分校跡や集落も含む広大な城域であったと思われる。城跡には今も七つの井戸が残っていると云われている。

この城を、若き最上義光が攻め落としたとき、義光は引き止める兵達を振り切り、真っ先かけて敵の八ツ沼勢と渡り合い、鉄棒を振り回して相手を仕留め首を取った。これを傍に駆け寄った氏家守棟が、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく諌め、義光は取った首をかたわらにいた兵に与えてしまったという逸話が残る。

その後、最上氏が支配していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に伴う出羽合戦では上杉勢によって攻略された。戦後は山野辺城主山野辺義忠の所領となり最上氏の支城となったが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われる。

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