山形県南陽市宮内

震災前取材

 

宮内熊野大社は、大同元年(806)以前にすでにあったと思われ、この年、平城天皇が当時開拓中で朝廷の統治が充分でなかったこの地方に、中央の崇敬篤い熊野権現を勧請し、開拓民の幸せを祈願し再興したと伝える。

その後、清和天皇の命により東北の地を行脚した慈覚大師は、貞観6年(864)この地を訪れ、本尊として、弥陀、薬師、観音の三像と大黒像を納めたと伝えられる。

その後、永承6年(1051)、陸奥六郡を支配していた安倍頼時は勢力を拡大し、国司の命にそむき、奥州は戦火につつまれた。
この前九年の役の際、父の陸奥守源頼義をたすけた源義家は、熊野大社に必勝の誓願をし 、この役を平定することができた。

また永保3年(1083)におこった後三年の役においては、国司として陸奥に入った義家は、寛治元年(1087)鎌倉権五郎景政を使いとして必勝を祈願し、その際境内に銀杏の木を手植えしたと伝えられている。

また、文永・弘安の元寇の際には、亀山上皇の上使が訪れ、国難退散の祈祷が行なわれ、そのときの御篭りの場所が鏡池として今に残っている。

中世において、全国に広がった熊野信仰は「伊勢へ七度、熊野へ三度」とうたわれ、「蟻の熊野詣」の諺が生じたほどで、各地に大小の熊野神社が祀られた。この中の特に著名な三社を、日本三熊野と云い、紀州の熊野三山の他に、碓氷峠の熊野神社、そしてこの宮内の熊野神社を数える。

その後、伊達、直江、上杉などの歴代領主の庇護を受け明治に至るが、この間、熊野信仰は早い時期に仏教と結びつき、神仏混然一体とした形態が長く続いた。

紀州熊野は、自ら証誠寺と称し、全国各地に熊野神社の中の数ヶ所の大社に証誠寺の称号を許し、この地の大社も証誠寺の称号を許され、これを学頭坊に、数 十の坊を率いる密教系の一山寺院の形態を呈していた。頭初は、他寺他山の支配をうけることなく、独立無本寺の別山だった。

またこの熊野大社には、善光寺如来が長く安置されていた。これは、上杉氏とともに置賜の地にもたらされたもので、上杉謙信と武田信玄の川中島合戦は、長野善光寺をめぐる宗教勢力獲得のための戦いでもあった。この合戦で、善光寺の如来像は上杉謙信の手にわたり、それがこの地にもたらされたもので、現在の米沢法音寺に移るまで、この熊野宮に安置されていた。

江戸時代以降は本山や本寺をもつようになり、天台、真言、大津神主、山伏修験等、一山中に代表的な宗教が網羅されているという非常に複雑な構成となった。しかし、明治初年の太政官布告により、神仏分離が行なわれ、熊野神社として現在に至る。

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