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山形県長井市草岡

震災前取材

 

別名:庄内直路

朝日軍道は長井市草岡から大朝日岳を通り、朝日村鱒淵に到る約60kmの山岳道路。

関が原の決戦前の慶長3年(1598)、上杉景勝は秀吉の命により会津に移封し、会津、伊達、信夫、置賜、庄内、佐渡の百二十万石を領した。しかし、会津や置賜から庄内へ往来するには、最上氏の領内を通るか、越後の村上を迂回するしかなく、庄内は孤立状態だった。

庄内領をめぐっては、これまで最上氏と上杉氏は激しく争ってきた経緯があり、最上領を通らずに庄内と置賜を結ぶ道はどうしても必要だった。

このため、上杉氏の重臣の直江兼続は、長井から庄内に通じる軍用道路「朝日軍道」の開削を行った。もともとあった修験者の道や、狩猟の道を改良し、新たに馬の通れる幅員にし、つづら折で勾配をなだらかにし、関ヶ原の戦いの前後には、軍団の移動を行える状態になった。

その路程は以下のようであったという。
長井草岡⇔桶佐堀⇔葉山(1,264m)⇔焼野平⇔御影森山(1,534m)⇔大沢峠(1,434m)⇔平岩山(1,609m)⇔三十三曲坂⇔大朝日岳(1,870m)⇔西朝日岳(1,814m)⇔竜門山(1,687m)⇔寒江山(1,695m)⇔三方境⇔狐穴⇔ 以東岳(1,771m)⇔オツボ峰⇔戸立山(1,552m)⇔茶畑山(1,377m)⇔芝倉山(1,221m)⇔葛城山(1,121m)⇔高安山(1,244m)⇔兜岩(1,068m)⇔猿倉山(997m)⇔朝日鱒淵

関ヶ原の戦いの折に、上杉氏は米沢と庄内から最上領に攻め込んだ。しかし関ヶ原の本戦は東軍の勝利で決着し、上杉勢は急遽最上領から撤退した。庄内から攻め込んだ酒田の東禅寺城主志駄義秀は、酒田城まで撤退したが最上勢に攻められ、酒田に孤立した。翌年の春先まで篭城し、孤立無援の中、最上勢の猛攻に耐えたが、遂に降伏開城し、まだ雪の深い朝日軍道を、多くの犠牲者を出しながらも上杉領に撤退した。

関ヶ原の戦いで西軍の側に立った上杉氏は庄内を失い、庄内は最上領となり、朝日軍道も使われることもなくなった。今でも、残雪期には、寒江山や以東岳の斜面に稲妻型の痕跡が見られるという。