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山形県長井市歌丸

震災前取材

 

この地に石塔婆が六基並んで立ち、古くからこの地は六本仏と呼ばれている。建立の年代、由来とも定かではないが、次のようにも伝えられている。

この地は長井の庄と呼ばれ、米沢の長井氏の支配下にあった。八代長井広房の時代、福島県伊達郡の伊達氏はその勢力を拡大し、康暦2年(1380)7月、長井の庄に攻め込んだ。宗遠は、茂庭行朝を先鋒として置賜郡に侵入し、北西部を占領し高畠城を拠点とした。長井氏は米沢田沢城主の新田遠江守を将として小松に陣を張り伊達軍と対峙したが、遠江守は伊達氏の謀略により伏兵に襲われ、従臣ともども討ち死にした。

その後、伊達氏はこの地に五輪塔を建て、新田遠江守の霊を祀り、また新田氏の六従臣のために、六本の石塔婆を立てて供養したと伝えられる。

この伊達氏の長井荘侵攻に対して、鎌倉公方足利氏満は、近隣の諸将に長井氏を救援するように命じ伊達氏は撃退された。しかし、伊達氏の長井侵攻は繰り返され、ついに、至徳2年(1385)、宗遠の子政宗は長井荘に侵攻し長井氏は滅亡した。