山形県山形市桜町

震災前取材

 

豊烈神社は山形城跡の入り口にある。最後の山形城主水野氏の所縁の神社で、水野氏中興の祖の水野忠元と水野忠邦、そして戊辰戦争の責を一身に負い切腹した水野元宣と山形防衛戦で戦死した22人の霊が祀られている。

水野氏は、徳川家康の生母お大の方の生家として、幕府の譜代大名である。遠州松浜城主六万石の城主だった水野忠邦は老中首座をつとめ、「天保の改革」を断行したが失敗し失脚、弘化2年(1845)、その子忠精が13才にして、山形五万石に移封された。忠精は、弘化5年(1848)、旧領の遠州浜松から山形城二の丸に豊烈神社を遷座した。

その後約20年後の慶応4年(1868)、明治維新の動乱期に、新政府軍は仙台から山形に進入した。山形藩は当初政府軍に属し庄内藩と戦ったが、仙台・米沢両藩の呼びかけに応じ奥羽 越列藩同盟に参加した。

しかし、新政府軍の攻勢の前に各藩は次々と降伏し奥羽列藩同盟は瓦解し、山形藩も降伏した。

水野氏は明治3年(1870)近江に移り、豊烈神社も遷座したが、明治13年(1880)、旧山形藩士らが勧請し分社を現在の地に造立した。

山形城主水野氏は、練武として打毬を奨励し、現在もこの神社の大祭で、古式豊かに行われている。

 

・水野元宣像

水野三郎右衛門元宣は、遠州浜松に生れ、藩主の国替えにより弘化3年(1846)、4歳のとき山形に移住した。文武両道にすぐれ、22歳の若さで家老職を継いだ。

明治維新の時期に、当初山形藩は新政府軍の側につき庄内藩と戦ったが敗れ、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形を兵火の災害から救った。

山形藩は当時五万石と小藩で、財政は苦しく、充分な武器の備えもない状況の中で、新政府軍と隣接大藩との板ばさみの中にあった。このような中で、東北雄藩の多くは、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨し、仙台、米沢の両藩を中心に、奥羽越列藩同盟を結び、庄内藩に敗れた山形藩もこれに加わった。

しかし間もなく、各藩は相ついで降伏し奥羽越列藩同盟は瓦解した。山形藩も降伏し、元宣は反逆の罪で捕縛されたが、「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、明治2年(1869)一身にその責を負い処刑された。27歳であった。

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