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山形県山形市中野

震災前取材

 

山形市立大郷小学校に「史蹟中野城址」の碑がある。大郷小学校は、かつての中野城主郭の西側にあたる。

中野城は、中世における山形城の支城として、山形三代最上満直の次男満基が、応永年間(15世紀始め)に築城した連郭式の平城である。主郭は東西約340m、南北約250mだったと考えられる。内掘は幅6mから10mで、高さ2mの土塁を巡らし、二の郭に当たる南西部には外堀を構築し、東北部には寺院を配置している。中野の地は最上川支流の須川に面し、戦略上、経済上のみならず、水陸の交通上からも重要な拠点であった。現在は遺構はほとんど見られず、堀の形が一部に残るのみで、「楯」「北口」「的場」などの地名にその名残を残す。

宗家最上氏と中野氏は、最上一族中最も密接な関係にあった。中野義淳の長男義定は最上宗家を継いで山形城に入り、次男義建は中野氏を継いだ。しかし最上義定は伊達氏に敗れ、その死後は伊達氏の意向で僅か2歳の義建の孫、義守が最上氏の当主に据えられた。義守は長男義光を嫌い、次男の義時に継がせようとしたが老臣氏家定直の調停で義光の家督相続が決まり、義時は中野氏を継いだ。

しかし再び決裂し、隠居の最上義守と中野義時は山形城の最上義光を討つべく画策し、伊達輝宗や天童氏などを味方につけた。しかし義光は輝宗と和議を結び、天正3年(1575)、義時が義光を呪詛したという理由で義光方は夜襲をかけ、中野城や寺院は灰燼に帰したという。義時は切腹し、その子備中は仙台へ逃れ、中野氏は滅亡した。中野領は義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は最上氏の家臣団に編入された。

中野義時に関しては、実在には疑念があるともされ、長瀞義保と同一人物ではないかとの説もあるが定かではない。

元和8年(1622)、最上氏の改易後は廃城となり破却された。