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山形県山形市霞城町…霞城公園
震災前取材

別名:霞城(かじょう)

山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は作られなかった。二の丸は一辺500mほどの方形、三の丸は1.5〜2kmほどの楕円形で、国内でも有数の広さの城である。

延文元年(1356)に、南朝方の勢力が強かった山形に北朝方の斯波兼頼が奥州大崎から羽州探題として山形に入った。兼頼は翌年山形城を築き最上姓を名乗り、その子孫が代々山形城主となった。

兼頼から11代目にあたる最上義光は、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの折の出羽合戦での功により、庄内三郡と秋田の由利郡を与えられ、57万石の大大名となった。山形城と城下町は、この義光によりおおよその基礎がつくられた。

山形城は、その別名を霞城(かじょう)と呼ばれる。出羽合戦において、米沢城主直江兼続率いる上杉軍が山形に侵攻し、長谷堂城を攻めた。その際、現山形市街地の西にある富神山に陣を構えた上杉勢からは霞がかかってその位置を隠したことに由来する。

義光は、斯波兼頼以来の城と城下を広大な三の丸内に取り込んで重臣たちの屋敷地とした。新しい城下町と下級家臣団の屋敷地を城の外にもうけ、下士屋敷地や職人町や商人町など33ヶ町の町割を行い、七日町や十日町などの町が羽州街道沿いに造られた。また浄土真宗の寺院14ヶ寺を一ヶ所に集め寺町をつくり、71の寺社境内地を城下の要所や街道の出入口に配置した。当時の記録によれば、3万5千人を超える大城下町となった。最上川の舟運も盛んになり「最上百万石城下」といわれるほどに栄えた。

その後、最上藩は御家騒動のために改易となり、鳥居忠政が山形に入り現在の形に整えられた。

現在は、霞城公園として二の丸城址が残されている。現在、二の丸東大手門が復元され、平成21年(2009)度までに本丸一文字門の枡形及び高麗門、本丸土塀を復元する計画を持っており、その復元工事が進められている。