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山形県山形市御手作

震災前取材

 

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに伴い、米沢城将直江兼続は上杉の本隊2万の兵を率い、狐越街道を通り最上領に侵攻した。上杉勢は畑谷城、山野辺城を落とし、次いで長谷堂城を囲んだ。 直江兼続は長谷堂城を見下ろす菅沢山に陣を置き。大森山にも兵を配し長谷堂城を囲んだ。

長谷堂城は堅固な山城で、その周囲も深田や沼地が広がる天然の要害だった。上杉勢の苛烈な総攻撃に対して、長谷堂城の城方は果敢に打って出て、さらに最上義光の軍勢がこれに加わり、伊達の援軍も参戦し混戦となった。この混戦の中、上泉主水泰綱は敵勢の中に孤立し、奮戦するもこの地で討ち死にした。

戦後、村人達はこの地に塚を築き、上泉泰綱をはじめとし、この地で討ち死にした200人を超える戦死者達の霊を慰めた。

上泉泰綱は新影流の祖である伊勢守信綱の孫で主水(もんど)と名乗った。祖父の下で新陰流を学び、後に北条家臣となるが北条氏が滅亡後は浪人であったが、慶長2年 (1597)、関ヶ原の戦いを控えていた上杉氏の求めに応じこれに仕え三千石を知行した。