山形県山形市渋江

震災前取材

 

丸橋忠弥は、慶安4年(1651)の由井正雪の乱に加担し、捕縛され磔となった。この地が丸橋忠弥の生誕の地とも幼少の折の居住地とも伝えられ、その他、山形市にも忠弥の居住地と伝えられる地もあり、数箇所忠弥の伝承を残す。幼名は小太郎、槍術の名手で天草の陣で正雪に心服し、正雪の片腕としてその後の行動をともにした。

河竹黙阿弥の歌舞伎作品『慶安太平記』によると、長宗我部盛親の側室藤枝(ふじえ)の子で、本名は長宗我部盛澄(もりずみ)と設定されている(異説あり)。 藤枝の父で最上家の家臣だった丸橋曲流の保護を受け、曲流の死亡後、元服して丸橋忠弥盛澄と名乗ったと云うが、出自に関しては諸説あり定かではない。

やがて元最上家の浪人で、江戸で北条流軍学と日置流弓術を修めて道場を開いて成功した柴田三郎兵衛という者から招きを受け、江戸で得意の宝蔵院流槍術の道場をお茶の水に開いた。その後由井正雪と出会い、正雪の幕府転覆計画に加担する。由井正雪は、当時軍学者として名声は高く、各地の大名や幕府からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪はその誘いには応じず、軍学塾「張孔堂」を開いた。

当時幕府では、三代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれ、多数の大名の減封・改易により多くの浪人があふれていた。これは一種の社会問題となり、幕府政治に対して批判的な者も少なくなく、社会不安が広がっていた。正雪は、そういった幕府の政策を批判し、多くの浪人たちの支持を集めていた。

慶安4年(1651)4月、徳川家光は48歳で病死、その跡を11歳の徳川家綱が継ぐこととなった。将軍が11歳の幼君であることから、これを好機とした正雪らは幕府転覆、浪人救済を掲げ行動を開始した。計画では、 丸橋忠弥らは江戸小石川の幕府火薬庫を爆破し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。そして江戸城を占拠し、次の将軍に予定されている徳川家綱を人質とする。同時に京都、大阪でも浪人たちが決起し、その混乱に乗じて正雪が天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取る為の勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、というものだった。

歌舞伎の「慶安太平記」では、忠弥は酔っぱらったふりをして、謀反を起こす時の下調べのため、江戸城の外濠に石を投げ込み、その水音でお濠の深さを測る。それまでの酔態から正気の目付きに変わった時の凄み。さらに煙管を取り出しての見得。忠弥の行動を見た松平伊豆守がゆっくりと音もなく近づいて来て、忠弥に傘を差しかける。ハッとして再びもとの酔態に返る忠弥。この劇中の名場面である。

しかし、一味の内からの密告により計画は事前に露見し、慶安4年(1651)7月、丸橋忠弥は江戸で捕縛されてしまった。京都へ向かっている途中の正雪も駿府で捕り方に囲まれ自決し計画は頓挫した。

捕縛された忠弥は、鈴ヶ森で磔にされ処刑された。

辞世「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」

駿府で自決した正雪の遺品から、紀州徳川頼宣の書状が見付かり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後にこの書状は偽造であったとされ、頼宣が表立った処罰を受けることはなかった。

この事件の後、幕府はこれまでの武断政治を改め、浪人対策に力を入れる様になり、諸藩にも浪人の採用を奨励し、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになる。

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