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山形県東根市本丸東

震災前取材

 

里見景佐(かげより)は、天正12年(1584)、八代目の東根城主となり、元和6年(1620)12月に没した。翌元和7年(1621)、景佐の嫡子である親宣によって五輪塔が建立された。宝形造の覆堂は元禄5年(1692)に建造され、東根市内では最も古い木造建築である。

里見氏は、清和源氏の流れで、鎌倉時代の中期以降、北条氏が執権として実権を握り、三浦氏や安達氏などの御家人と対立した時期に、寒河江に下向した大江氏と同様に、里見氏も出羽に下向したものと考えられる。その後、天童に拠点をおいた里見頼直は天童氏を名乗り、その子頼高を東根に分封した。

宗家の天童氏は、戦国時代に最上氏から自立するようになり、最上義光の時代には最上八楯を形成し東根氏もその一翼を担っていた。特に東根頼景は天童氏から入っておりその結びつきは強かった。しかし、一族は一致して結束していたわけではなく、東根城は最上義光に攻められ落城した。その後、最上派だった里見景佐は義光に臣従し、出羽合戦でも功を挙げ、戦後山形藩重臣として東根城1万2千石を与えられ東根氏を名乗った。景佐は東根城主になると、城を大規模に改修し城下町も整備、現在の東根市の基礎を築いた。

最上義光の死後、山形最上藩は次男の家親が継ぎ、景佐の嫡子の頼宣は家親の一字を与えられ親宣と名乗るなど、山形最上藩の中で磐石なものと思えたが、この当時藩内はその後継を巡り不満が充満していた。元和6年(1620)、景佐の死後は子の親宣が継いだが、この時、景佐の遺書には「最上家はあと三年しかもたない」といった内容の事が記されていたという。その予言通り、2年後の元和8年(1622)最上氏は改易され、東根氏は後に徳島藩蜂須賀氏に仕えた。