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山形県鶴岡市羽黒町松ヶ岡字松ヶ岡

震災前取材

新徴屋敷は、幕末の文久3年(1863)、庄内藩預かりとなった浪士組新徴組の庄内移住に伴い、庄内藩が鶴岡城下に建てた百棟の住宅である。その内の約30棟を、明治8年(1875)頃、松ヶ岡開墾士の住宅としてこの地に移築したもの。

新徴組は、江戸時代後期の文久2年(1862)に、清河八郎の献策によって結成された江戸幕府による警備組織である。江戸で浪士組の募集が行われ、将軍徳川家茂の警備の為に京都へ上洛したが、清河八郎の真の意図は、浪士組を幕府から切り離した組織にし、急進的な尊皇活動に利用することだった。

しかしこの目論見は、芹沢鴨や近藤勇らの反対により失敗し、浪士組には帰還命令が出された。清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かい、清河に反対した芹沢、近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなってそのまま京都に残り、「壬生浪士組」となり、その後新選組となった。

浪士組が江戸へ帰還した後、清河八郎は斬殺され、清河の同志達も次々と捕縛された。幕府は残された浪士組を新たに「新徴組」と名付け、江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。主に江戸市中の警戒、海防警備に従事し、屯所は江戸の本所に設置されたが、大政奉還、王政復古により江戸幕府が消滅し解散となった。しかし、庄内藩主酒井忠篤の庄内への帰国に従ったものも多い。