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山形県鶴岡市丸岡

震災前取材

里見民部は、もとは上山城主里見(武永)満兼の一門だったが、満兼と最上義光の争いの中で義光側につき、満兼を討ち上山城主となった。

民部は上山城主として慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折の出羽合戦では、上杉方へ の内応の疑いを持たれていたが、物見山の戦いで上杉軍を撃退する活躍を見せた。

その後最上家は、家督相続を巡り、長男の義康と、父義光がいさかいを起こしていた。これには里見民部の讒言があったといわれ、義康は義光から高野山に入ることを命じられる。義康はそれに従い重臣浦山源左衛門らと高野山に向ったが、その途中、この丸岡の地の近くの下山添の地で、尾浦城主下吉忠の家臣となっていた土肥半左衛門と上山里見氏の家臣の原八右衛門ら20余名に奇襲され、義康は義光への憤激の言葉を残して自刃し首をとられたと言う。

最上義光は、この事件の真相究明を命じ、この事件直後に出奔し前田家に逃れていた里見父子を連れ戻し、下吉忠のもとに預けた。慶長19年(1614)、義光はその死の年、里見父子をこの丸岡の地で切腹させた。これは義光の遺言だったと言う。