山形県天童市小路一丁目…仏向寺

震災前取材

 

吉田守隆(もりたか)は、幕末期の天童織田藩家老で通称は大八。

天童藩は、高畠への陣屋移転の経費や飢饉による税収減で財政は逼迫し、年貢の前借や藩士からの俸禄引割、紅花の専売制実施などを試みたが、藩財政は改善にはいたらなかった。特に下級藩士の生活は苦しく、大八は救済策として将棋の駒作りを米沢藩から招聘し、藩士たちに将棋駒の内職を奨励した。

藩内には、武士が内職を行うことに批判的な勢力もあったが、大八は将棋が用兵の技量を育成するのに適した遊戯であり、駒をつくることは武士の本分に外れないと主張し擁護したと伝えられる。この将棋駒の製造は明治以降も続けられ、現在では、全国生産量の9割を占め、天童の特産品となっている。

慶応4年(1868)、幕府軍が鳥羽伏見の戦いで破れ、朝廷は会津藩、庄内藩の追討を仙台藩など東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督澤為量らを東下させた。天童藩は、織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられ、大八は藩主の名代として先導役を勤めた。

この時期、庄内藩は戦争不拡大の方針で、事態を静観していたが、鎮撫軍は同年4月5日に、庄内藩領を攻撃することを天童藩、山形藩らに命じた。これを知った庄内藩は、4日に鎮撫軍に対し先制攻撃を行い、最上川を渡り天童を攻撃、市街の南半分の230戸を焼討ちし、陣屋も炎上した。

またこの時期は、鎮撫軍内部の東北諸藩は、戦闘を避けて穏便に和解を図ろうとしており、強硬に会津藩、庄内藩を討伐しようとする鎮撫総督との間では亀裂が生じており、東北を賊徒として厳しい態度をとった鎮撫軍参謀世良修蔵は暗殺され、奥羽越列藩同盟が結成された。天童藩も先導役を辞退し、列藩同盟に加盟せざるを得なかった。

先導役を勤めた大八は、その責任により蟄居させられた。親交のあった長州藩の桂太郎は、蟄居中の大八に逃亡を勧めたが、大八は「藩主に迷惑がかかる」と断ったと伝えられる。その後、列藩同盟からの圧力に対し、天童藩は大八に切腹を命じ、大八は6月18日、天童妙法寺の観月庵で切腹した。

戊辰戦争終結後、大八の業績は高く評価され、明治2年(1869)には、明治天皇より200両の祭祀金を下賜されるなどし、これら祭祀金を元に(1871)現在の天童護国神社として続く、素道軒守隆祠が建立された。

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