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山形県大蔵村清水…興源院

震災前取材

 

清水氏は、南北朝期 に北朝方として山形に入った奥州探題斯波氏の流れで、文明8年(1476)、成沢城主兼義の子の、孫次郎満久がこの地に入部し、最上川を見下ろす高台に清水城を築城し、以後、清水氏を称した。

清水城は最上地方を巡る、庄内の武藤(大宝寺)氏、仙北の小野寺氏との戦乱の最前線として、また、最上地方南部の領国経営の中心として発展した。

清水の地は、当時は最上川中流域の中心都市であり、日本海から最上川をさかのぼり、山形県内陸へと物資を運ぶための重要な中継基地でもあった。そのため、武藤氏にとっても手に入れたい重要な拠点であり、何度も武藤勢の攻撃を受け、逆に、最上氏の庄内進出の足がかりともなった。

永禄8年(1565)、本合海の戦いで武藤義増はこの地より北方3kmの地の八向楯を拠点として清水に侵攻し、清水氏五代の清水義高は討ち死にした。その跡を継いだ六代清水義氏は、男子がなかったために最上義光の三男の義親を養子として迎え入れ、最上義光との関係を密にし、また、義氏の娘は、正妻と死別していた義光の側室となり、清水御前と呼ばれた。

清水義親は、抵抗を続ける八向楯の合海氏を攻め滅ぼし、関ヶ原の戦いの際には出羽合戦で活躍し、その後の上杉軍の追撃の総大将となるなど、知勇合わせた将であったようだ。しかし義親は、以前に豊臣家に近習として仕えていたことがあり、豊臣秀頼とも親交があったと云い、慶長18年(1613年)、徳川家康と豊臣秀頼との対立が決定的になると、義親は大阪方との内通が疑いをかけられた。最上義光の死後の慶長19年(1614)11月、兄の最上家親により攻められ、清水城は落城、義親は、13歳の嫡子義継とともに自刃し、ここに清水氏は滅亡した。

この最上家親による清水城攻めは、長男の最上義康が暗殺されて以来くすぶっていた、最上の重臣たちの家親の家督相続に対する不満に対し、家親が謀反を未然に封じるためのものだったとも云われている。

なお、この地大蔵村の由来は、清水義親が大蔵大輔であったことに由来する。