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山形県天童市成生

震災前取材

 

鎌倉期、里見義景による築城と云われているが詳細は定かではない。主郭の南東端であった数mの高台に龍頭権現の神社があり、館跡を示す標柱が立っている。地形からすると水堀と湿地帯に守られた平城だったと思われる。現在は土塁と堀の一部らしいものが残っているが、はっきりした遺構は見当たらない。

里見氏は、清和源氏の流れの新田義重の子義俊が、上野里見郷に住したことから里見を称したと伝えられるが、出羽に下向した理由は不明である。しかし鎌倉時代の中期以降、北条氏が執権として実権を握り、三浦氏や安達氏などの御家人と対立した。このような状況の中で、頼朝以来の御家人達が鎌倉を去り、寒河江に下向した大江氏と同様に、里見氏も出羽に下向したものと考えられる。

里見義景には実子がいなかったために、最上氏の祖の斯波家兼の子の義宗を養子とし、さらにその跡を最上氏の最上直家の子の頼直が継いだ。

永和元年(1375)頼直は、成生から北畠天童丸の去った地に拠点を築き、天童を名乗り、その子満長を上山、頼高を東根、頼種を鷹巣にそれぞれ分封し、村山地方に大きな勢力を築いた。