山形県鶴岡市大山三丁目

震災前取材

別名:大山城

鶴岡市大山の尾浦城(大浦城)は天文年間(1532~55)に大宝寺(武藤)氏によって築かれた。

大宝寺氏は源頼朝に仕えて功があり、その功により大泉庄の地頭職を拝領した。出羽に下り大宝寺(現在の鶴岡市)に居住したので、以来、大宝寺氏とも称するようになった。

大宝寺氏は大宝寺城(現、鶴岡城)を中心に庄内地方に勢力を伸ばした。しかし天文元年(1532)、最上川以北に勢力を持つ分家の砂越城主の武藤氏維によって、宗家の大宝寺晴時はその当時の居城であった大宝寺城を攻められた。このため、居城を平城の大宝寺城から、守りの堅い山城の尾浦城に移した。その後、大宝寺義氏は、越後の上杉氏の力沿えにより威勢を誇った。しかし義氏は、その強権的な支配から「悪屋形」と呼ばれ、家臣や領民は苦しめられたという。

天正11年(1583)、山形の最上義光に煽動された反大宝寺氏の砂越氏、来次氏が挙兵。義氏は家臣前森蔵人を差し向けるが逆に最上義光に内通した前森の奇襲を受けて自刃した。その後、前森蔵人は酒田の東禅寺城主となり東禅寺筑前守を称した。大宝寺氏は義氏の弟で丸岡城主、藤島城主、羽黒山別当の丸岡兵庫が継ぎ、大宝寺義興を名乗った。義興は越後の大名上杉景勝の家臣本荘繁長の子を養子として大宝寺義勝を名乗らせ上杉の力を背景に勢力回復を図った。

しかし天正15年(1587)、上杉と最上の勢力の狭間で混乱する庄内に、最上義光は酒田の東禅寺氏の手引きにより侵攻し、大宝寺氏を攻めて義興は敗れて自刃した。大宝寺氏の養子となっていた上杉の重臣の本庄繁長の実子大宝寺義勝は、一旦小国城(温海町)に退却し難を逃れた。翌年、実父本荘繁長の援軍を得て庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで最上軍を破って仇敵東禅寺筑前守を討ち取った。こうして大宝寺氏は再興され、庄内は事実上、上杉家臣本荘繁長が支配した。

しかし、豊臣秀吉の支配が定まった天正18年(1590)、庄内で太閤検地に反対する一揆が発生し、本荘繁長と大宝寺義勝は一揆を扇動した嫌疑で所領を没収され、庄内は上杉景勝による直接支配となり、尾浦城には上杉家臣の下吉忠が入った。

慶長5年(1600)、下吉忠は、関ヶ原の戦いの際の出羽合戦において、直江兼続による最上義光攻めの別働隊として庄内の軍を率いて山形方面に出兵した。しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れて直江率いる上杉軍主力が撤退すると最上義光に降伏し、最上勢の先陣となり庄内を攻めて尾浦城主に返り咲いた。

最上統治時代に尾浦城は大山城と改名され、酒田の東禅寺城は亀ヶ崎城、大宝寺城は鶴ヶ岡城と改名されたが、最上藩は(1622)改易となり大山城は廃城になった。

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