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山形県大蔵村清水

震災前取材

 

清水城は、文明8年(1476)に最上家の祖斯波兼頼の孫である最上兼義 の六男の満久よって築かれたと伝えられる。以来、城主は清水氏を称し在城した。

清水城は最上家にとって対庄内、対仙北の最前線拠点としての機能を果たしてきた。内陸進出を図る庄内の大宝寺(武藤)氏と度々争い、永禄8年(1565)には、5代城主義高が城外に出て戦い、討ち死にした。天正10年(1582)にも攻められたが、城主の義氏の娘が最上義光の側室だったこともあり、支援を受けてこれを退けた。

天正14年(1586)清水義氏が亡くなると、嗣子が無かったために最上義光の三男義親を養子とし七代城主となり清水氏を継いだ。

しかし、慶長19年(1614)最上義光が亡くなり、二男家親が跡を継ぐが、義親は幼少の頃、大坂城に小姓に上がっていたことがあり、大阪の陣の直前に家親の軍勢に急襲されてこの地で自害した。