山形県鶴岡市松根字中松根

震災前取材

松根城は、最上義光の甥とされる松根備前守光広によって築城された。松根は庄内と内陸を結ぶ六十里越の要地にあり、城は赤川右岸の断崖上に位置し、西の赤川を自然の堀とした平城である。現在の県道44号線沿いにある最上院が主郭跡とされ、周囲には堀跡や土塁が残る。

光広は、寒河江白岩の白岩備前守の養子になっていたが、義光による庄内平定後、松根に一万石を与えられ、この地に築城し松根を称したと云う。また、六十里越街道の内陸側の拠点白岩城の城主も兼ね、最上家の家老職として重きを成した。

最上家は、最上義光存命中から内紛の兆しがあり、義光の長男義康が、この松根の近く下山添で暗殺された。義光没後は、大坂の陣を前にして、最上を継いだ次男家親により、三男の義親が滅ぼされた。また鶴岡では、一栗兵部が下吉忠と志村光清を惨殺するなど家臣団の争いが激化し混沌としていた。さらに、元和3年(1617)には二代藩主家親が若くして急死した。

元和8年(1622)、松根光広は家親の死が、義光の弟で重臣の楯岡甲斐守光直による毒殺だと幕府に訴え、幕府は光直を訊問したが証拠不十分として、逆に光広が筑後柳川に配流の身となった。しかしこの一連の最上家中の騒動により、最上家は改易となり、この時期に松根城も廃城となったと思われる。

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