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山形県鶴岡市丸岡

震災前取材

城は約2haの平城。南側の一部は住宅地で、ほかは畑地となっている。北側に水堀が残っており、また本郭跡に奥庭の泉水(百間堀)と庭石(巫子石、太夫石)が残っている。

丸岡城は、山形と庄内を結ぶ六十里越街道の庄内側の口となっている交通の要衝である。鎌倉時代から天正年間まで、この地方は武藤氏の支配下にあり、大梵字(鶴岡)の南方、六十里越口と大鳥越口のおさえの要地として、丸岡兵庫頭義興が在城した。後に武藤義氏が家臣の前森蔵人に討たれ、丸岡氏が武藤氏を継いだが、これも討たれた。

この地は、武藤氏の後は上杉、そして最上と領有したが、元和元年(1615)の一国一城令により城の楼閣は取り払われた。元和8年(1622)、最上藩が改易になると、庄内は酒井氏領となった。
慶長16年(1611)、肥後熊本五十四万石の太守、加藤清正が亡くなると、その後を加藤忠廣が継いだ が、寛永9年(1632)、肥後熊本藩は改易され、忠廣はこの地に配流された。酒井氏は丸岡一万石を捨扶持として忠廣に与え、この地に忠廣とその生母を住まわせた。
この地の片隅には、最上義光の長男義康暗殺の疑いで切腹させられた里見民部父子と加藤清正の墓がある。

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