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山形県金山町金山

2015/09/14取材

 

別名:楯山城

金山周辺は、戦国時代には横手の小野寺氏と山形の最上氏が激しく攻防が繰り広げられた地域で、天正9年(1581)、最上義光が小野寺義道を攻めるために、最上郡と雄勝郡を分ける有屋峠のふもとにある金山の地に、家臣の丹与惣左衛門に命じて城を築かせた。現在の金山町中心部の街割は、丹与惣左衛門の時代に作られたもの。しばしば仙北の小野寺氏と付近の有屋峠付近で小競り合いがあり、与惣左衛門は出陣を繰り返している。

丹氏は、もと武蔵の丹党の出で、最上氏により仙北小野寺氏への備えとして、この地に1千石を領した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、南に備える山形城の最上義光にかわり、この地で北の小野寺氏と対峙し金山城を守り、勇名を馳せた。しかしその後、無常を感じ羽黒山に入り世を去ったという。

丹氏の後は、鮭延秀綱の家臣薗部彦右衛門が1,000石で入城した。続いて慶長末年までには同じ鮭延氏の家臣川田三右衛門が城代となっている。元和8年(1622)、最上家が最上騒動により幕府に改易されると廃城になった。

山頂付近に25m四方の本郭と、長辺100m、短辺80mの二ノ郭の遺構が残されていると云う。麓の万宝院に現存する長屋門は金山城の大手門、金山小学校敷地内には「歴史の門」として裏門が移築保存されている。