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山形県金山町金山

震災前取材

 

戊辰戦争の折に、金山町の北はずれの、旧羽州街道森合峠の上り口に仙台藩兵は本営を置いた。この地は激戦の地となり、仙台勢はこの地で壊滅した。

慶応4年(1868)7月11日、新政府軍は秋田側より三方に分かれて攻め込んできた。雄勝峠より進軍してきた本隊は、主寝坂に陣を構えていた仙台、米沢、上山、新庄藩兵の同盟軍を攻めたが攻めあぐね、長州藩の桂太郎率いる一隊は鏡沢集落に現れ、鏡沢を守備していた新庄勢と仙台勢を攻めこれを破り森合峠に進出した。

薩摩兵を主とする部隊は、役内から有屋峠を越え金山宿を襲撃、金山を守備していた梁川播磨を隊長とする仙台勢は、山形勢、上山勢、新庄勢と共に布陣していたが、ここで新庄勢は新政府側につき離脱、背後より挟撃した。

同盟軍は大混乱に陥り、仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親は金山の十日町で重傷を負い、この地まで逃れたが、薩長の兵に襲撃されて夕刻に壮烈な戦死を遂げた。時に37歳、仙台藩は梁川播磨以下33名の戦死者を出し壊滅した。

現在、この地は小公園としてきれいに整備され、金山町の方々により供養が続けられている。