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山形県金山町金山

震災前取材

 

金山町の北はずれの、旧羽州街道沿いに、明治25年(1892)旧仙台藩有志によって建てられた仙台藩士戊辰戦没碑がある。この地は、金山での戦いで戦死した仙台藩兵が葬られた場所と伝えられる。

慶応4年(1868)3月、新政府は総督府と、薩長を中心とする新政府軍570人を、海路仙台藩へ派遣した。当時仙台藩の藩論はまだ固まってはいなかったが、新政府軍の仙台城下での強盗、強姦などの乱暴狼藉は、仙台藩士らを激怒させた。仙台藩は、会津擁護の立場を固め、奥羽諸藩とともに会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を九条総督に提出した。しかしこれは却下され、奥羽諸藩は仙台藩を盟主として奥羽列藩同盟を結び、薩長を中心とする新政府軍と各地で激しく戦いを交えた。

しかし、奥羽越列藩同盟の結束は必ずしも固いわけではなく、その足並みはそろっていたとは言いがたく、特に秋田久保田藩は不安定だった。仙台藩は久保田藩の真意を確認するため、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし久保田藩の尊皇攘夷派は、7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害し列藩同盟を離脱した。このため秋田久保田藩は新政府軍の拠点となり、同盟の主力の仙台勢500余名は、5月末仙台を発し、交通の要路の金山に軍を進めた。

7月11日、新政府軍は秋田側より三方に分かれて攻め込んできた。雄勝峠より進軍してきた本隊は、主寝坂に陣を構えていた仙台、米沢、上山、新庄藩兵の同盟軍を攻めたが攻めあぐね、長州藩の桂太郎率いる一隊は鏡沢集落に現れ、鏡沢を守備していた新庄勢と仙台勢を攻めこれを破り森合峠に進出した。薩摩兵を主とする部隊は、役内から有屋峠を越え金山宿を襲撃、金山を守備していた梁川播磨を隊長とする仙台勢は、山形勢、上山勢、新庄勢と共に布陣していたが、ここで新庄勢は新政府側につき離脱、背後より挟撃した。

両面から攻撃された同盟軍は大混乱に陥り、夕刻に隊長の梁川播磨は壮烈な戦死をとげ、軍監五十嵐岱助ら合計33名が戦死し仙台軍は壊滅した。

このとき、白河救援のために移動していた庄内勢の部隊約900人が、この報を受け、新庄にいた庄内藩の部隊と舟形で合流し、この3日後、角沢口から攻め込み、そのまま一気に新庄城を攻め落としたと 伝える。