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山形県最上町本城

震災前取材

 

別名:岩部の館

築城時期は定かではないが、戦国時期には細川直元がこの小国郷を支配しており、直元が「岩部の館」を築いたとされ、これが小国城の起源と言われる。

この地の細川氏は、足利氏の支流の細川氏の流れで、奥州細川氏の分流と思われるが、詳細は不明である。

細川直元は、勢力を拡大する山形の最上義光に対し、天童城主天童頼澄と同盟し天童八楯を形成し最上義光に対峙していたが、最上義光は天童氏を 攻め、天正8年(1580)には、蔵増安房守光忠率いる最上勢が小国郷に攻め込んだ。山刀伐峠を越えて攻め込んだ最上勢に対し、細川氏は赤倉温泉付近にある平原、万騎ノ原で迎え撃つがあえなく敗退、細川直元は討ち死にして細川氏は滅亡、小国郷は最上氏の領地となった。

最上義光は、この戦いで戦功があった蔵増安房守に小国郷を与え、その嫡子光基は、家督を継ぐと小国光基と改名し、岩部の館を改修し、小国城と称するようになった。小国氏は、約42年間、小国8千石余の地を支配していたが、元和8年(1622)、山形最上藩が改易されると、小国氏は佐賀藩鍋島家預かりとなりこの地を去り、小国城は廃城となった。

小国城は、絹出川の南側に延びた標高290mの丘陵に位置し、山の北端を頂点にして本丸とし、南側に階段状に斜面を削って各郭を置いている。北端の背後には、空堀を配し、東側の谷にも郭を配している。山麓には城下町を置いて、その周りを柵で囲っていたとされる。本郭は東西約84m、南北約87mで、二ノ郭が東西約22m、南北約36mの山城。