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山形県舟形町舟形

震災前取材

 

猿羽根(さばね)峠は羽州街道の難所の一つで村山地方と最上地方の境でもある。峠の名が登場するのは古く、延喜式に駅亭の「避翼(さるはね)駅」の名がある。奈良時代の頃より道があったとされ、多賀城から城輪柵、払田柵、秋田城へと向かう峠道として存在していたと考えられる。

江戸時代には、新庄藩と天領であった尾花沢との境界になった。現在も藩境を示す石標が残されている。江戸時代初期にはこの地は最上藩が支配していたが、元和8年(1622)に最上藩は改易され、最上57万石は分割された。新庄には戸沢政盛が入部しこの地を領有したが、山形に入部した鳥居忠政は領内に船着場が無いために戸沢政盛に大石田との領地替えを要請した。政盛は鳥居元忠の娘を室に迎え、忠政とは義兄弟であったため断れず、谷地二万石と交換し、尾花沢、大石田を手放した。その後、山形には保科正之が入部し寒河江と尾花沢、大石田は幕領となった。この石標にはこのような経過が関連していると考えられる。

羽州街道は久保田藩(秋田藩)が中心となって整備が行われ、このとき猿羽根峠から尾花沢にかけての区間は久保田藩によって開削され、かつては「佐竹道」とも呼ばれていた。庄内、秋田、津軽の諸大名の参勤交代道として使われ、また、峠の麓にある舟形宿からは出羽三山参詣路であった舟形街道が分岐しており、全国の修験者も多く行き交っていた。 元禄2年(1689)6月には、大石田の高野一栄宅を出た芭蕉と曾良も、夏の暑い日差しを受けながらこの峠を越えていったと推定される。

明治時代になると、初代山形県令になった三島通庸は、東京から山形を通り青森に至る街道の重要さを認識し、地元から費用と人足を徴用し、これまでの荷駄による輸送がせいぜいだった難路から、馬車の通行が可能な猿羽根新道を開削し、明治10年(1878)に開通した。これにより、山形県最上地方のみならず、東北北部全体が近代化に向けて発展することになった。

その後、奥羽本線の開通と共に一時交通の主役を鉄道に譲るが、昭和36年(1961)に、舟形市街地から直接猿羽根峠の下を貫通する国道13号猿羽根トンネルが完成し、陸上交通の主要道として復権した。