山形県尾花沢市中町

震災前取材

 

尾花沢を訪れた松尾芭蕉と曾良は、この地の紅花の豪商の鈴木清風邸に10日間滞在した。芭蕉はこの清風の人柄を「奥の細道」の中で次のように記している。

尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
またこの地で、曾良の句も含め、次の四句がおさめられた。

涼しさを 我宿にして ねまる也

這出よ かひやが下の ひきの声

まゆはきを 俤にして 紅粉の花

蚕飼する 人は古代の すがた哉   曾良

清風には次のような逸話が伝えられる。

あるとき、江戸の商人達が清風の紅花を買わないことを示し合わせ、清風に紅花を投売りさせようと目論んだ。怒った清風は、紅花に似せた赤く染めたかんな屑を高く積み上げ燃やした。そのことが江戸中に伝わり、翌日から紅花の値段が高騰し、清風は紅花を売り大層な利益を得た。しかし清風はこの金を「尋常な商売の金ではない」と、吉原を借り切って三日三晩吉原の大門を閉じて遊女を休ませたという。

芭蕉もこのような清風をして「かれは富める者なれども、志卑しからず」と言わしめたのだろう。

鈴木家の祖は、平泉に逃れた源義経のもとに紀州熊野から馳せ参じ、高館の地で没した鈴木三郎重家であるといわれている。清風はその分家筋の島田屋に生まれ、この地域の銀山が隆盛を極めていた寛永8年(1631)頃、諸物品の仲買や金融業で財力を蓄えたと云う。清風は江戸、京都、大坂などで手広く商売をし、その間俳諧を学び、俳人や商人たちとの交流を深めた。

紅花は、最上川の中流域、村山地方の一大特産品であった。尾花沢は、羽州街道の宿駅であり、最上川舟運の要所大石田に隣接していることから紅花の集散地として大いに栄えた。村山地方の各生産地や奥州各地から紅花の積荷が届けられ、尾花沢の商人はこうした紅花や米、青苧などを上方や江戸で売りさばくことによって経済力を高めた。島田屋鈴木清風はその中でも、「紅花大尽」の異名をとった別格の豪商で、豊かな財力をもとに金融業をも営んだ。

享保6年(1721)、清風は70歳の生涯を閉じた。辞世の句は、

本来の 磁石を知るや 春の雁

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です