山形県尾花沢市名木沢

震災前取材

 

今からおよそ1500年前、第十五代応神天皇の第二皇子の大山守命(おおやまもりみこと)が王位継承に関し謀反を起こし、追われる身となった。北へ向かって逃れてきたが、新庄の地で追討使に捕われ処刑されることになった。

大山守命は覚悟し、「我が身を七刀に切って、都に似た土地に葬ってくれ」と遺言を残した。ところが追討使は誤って皇子の身を八つに切ってしまった。

七つの身はそれぞれ新庄近在に七所明神として祀られたが、残りの1片は最上川をさかのぼり、国越えし、ここ六角壇に投げ捨てられた。そして一本の杉を植えて追討使は立ち去った。

このことから、この地は「投げ沢(名木沢)」と呼ばれるようになり、この一本杉は名木沢七所神社の元宮となった。

この一本杉は、幹は途中から七本に分れ、それぞれの枝が大きくそびえ立ち威厳を誇っている。枝一本でも切れば罰があたると古くから言い伝えられている。

大山守命の父の応神天皇は、最も幼い我が子の宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)にその後を継がせたいと思っていた。天皇は、ある日、その子の大山守命と大雀命(おほさざきみこと)に、「おまえたちは、年上の子と年下の子とどちらが愛しいか」と尋ねた。

大山守命は、「年上の子が愛しい」と申し上げた。次に大雀命は、天皇の心中を察し、「年上の子はすでに成人し、煩わされることもありませんが、年下の子はまだ成人しておらず愛しいでしょう」と申し上げた。

天皇は、これに意を強くして、大山守命には山海のまつりごとを、大雀命には食国のまつりごとを、宇遅能和紀郎子は天津日継(あまつひつぎ)を治めるように命じ、最も幼い宇遅能和紀郎子に皇位を継がせようとした。

大雀命は天皇の言葉に背くことはなかったが、大山守命は、応神天皇の死後これに背き、宇遅能和紀郎子により討伐された。宇遅能和紀郎子はこれを悲しみ、大雀命に皇位を譲ろうとしたが、大雀命はこれを受けず、互いに譲り合ううちに宇遅能和紀郎子は早世し、大雀命が皇位を継承し仁徳天皇となった。
これらの話は、日本の神話の領域に入り、史実かどうかは定かではないが、山形県には、新庄を中心として、大山守命の伝説がいくつか今でも伝えられている。

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