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山形県尾花沢市丹生

震災前取材

 

この地には、順徳天皇の陵と伝えられる「天子塚」がある。 壇は三段になっており、下壇は方十間、中壇は方七間、上壇は方三間ある。中央に老杉がありその下に遺骸が収められ、古くから壇上に上らないように戒められていたという。

第八十四代順徳天皇は、後鳥羽上皇の第三皇子として生まれ、後鳥羽上皇の強い意向で、土御門天皇の譲位により承元4年(1210)天皇に即位した。穏和な土御門天皇とは対照的に、激しい気性の持ち主だったと言われている。その後も後鳥羽上皇による院政は継続されていたが、朝廷の復権を求め、鎌倉幕府を倒すべく退位し上皇となり、父である後鳥羽上皇とともに挙兵した。順徳天皇は、後鳥羽上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的だったという。

承久の乱は失敗し、後鳥羽上皇は隠岐ノ島へ、順徳上皇は佐渡ヶ島へそれぞれ配流され、仁治3年(1242)、その地で崩御した。これ以上の存命は不要と、断食を行った後、最後は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったとも伝えられる。

しかしこの地には、これとは別の伝承が残る。

この地に伝わる伝承では、順徳上皇は、侍従の阿部常次郎頼時の手助けで密かに佐渡ヶ島を脱出し、日本海を渡り、最上川をさかのぼって大石田に上陸し、尾花沢から舟形山に潜幸した。その後、山を下り、上の宿に御所を構えたが、寛元4年(1246)7月、この地で崩御したと云う。

この地の塚は天子塚と呼ばれ、近くには順徳上皇を祭神とした御所神社がある。大正15年(1926)帝国議会において、この塚の調査が審議され、全国的に話題となった。