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山形県鶴岡市田麦俣

震災前取材

 

庄内地方と内陸地方を結ぶ六十里越街道は、平安時代以降、月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山の参詣路として利用されていた。江戸期には、鶴岡を発ち、松根、十王峠、大網、塞ノ神峠、田麦俣を経て 大網峠を越え、志津、本道寺、寒河江を通り山形に至る間の険しい山岳道である。

出羽三山は、熊野三山(紀州)・英彦山(九州)とともに古くから修験者のみならず一般民衆の信仰を集めた霊山であり、東北の修験道の中心地だった。その信仰は東北一円はもとより関東にまでおよび、各地に湯殿山の石碑が残され、往時の信仰の厚さ信者の多さを物語っている。

戦国時代に入ると、六十里越街道は軍道としての役割を持つようになった。天正11年(1583)寒河江城主大江氏が尾浦城主武藤氏援軍のため、西川町志津から庄内へと急いだ。
最上義光は庄内地方を手中に収めるべく侵攻を開始。大軍を率いて六十里越街道を進み、一時庄内を掌握した。しかし十五里ヶ原の戦いに敗れ、再び庄内は上杉の支配下になった。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの折の出羽合戦では、上杉軍の別働隊として、下吉忠が、庄内の尾浦城から旧街道を越え、寒河江白岩城と河北谷地城を攻め、これを攻略した。関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、上杉勢が退却すると、最上勢は念願の庄内地方を手中に収めるべく侵攻を開始。庄内から秋田県の由利郡までを手中にする。

さらに江戸時代、六十里越街道は非常時には参勤交代路としても利用されていた。庄内藩主の参勤交代通路は通常、清川から船で最上川を上り、舟形から羽州街道、奥羽街道を通り江戸に向かうが、天保6年(1835)には旧街道を通った。庄内藩一行は3月31日の朝、鶴ヶ岡城を出発、その日は大日坊本陣に泊ることになったが、雪が多く大網地区の老若男女が総出で雪道づくりにあたったという。

最上義光の時代以降、江戸時代に幾度か開削等の改修が行われ、明治30年代になって道路が開通すると旧街道は表舞台から退いた。その後も改修が進められ、現在の国道112号線が、ほぼそのルートになる。苔むした旧街道、旧国道沿道には今も、時代の名残をとどめる数多くの史跡がひっそりと眠っている。