山形県鶴岡市友江

震災前取材

戦国時代末期の庄内は、山形の最上氏と越後の上杉氏の争奪の場であった。上杉氏と結んでいた尾浦(現在の鶴岡市大山)の大宝寺(武藤)氏は、天正15年(1587)、最上義光と酒田の東禅寺義長の攻撃を受けて滅亡、養子で上杉の重臣の本庄繁長の実子の大宝寺義勝は、越後村上に難を逃れた。

翌天正16年夏、本庄繁長と大宝寺義勝父子は数千の大軍を率いて庄内に侵攻した。東禅寺義長とその弟の右馬頭、最上の援将草刈虎之助は城を出て十五里ヶ原でこれを迎え撃ったが戦い莉なく敗北した。

東禅寺義長が討ち死にした後、その弟の右馬頭は首実検を偽り本庄勢に紛れ、単身敵陣に乗り込み繁長に一太刀浴びせたが、この地で悲壮な最期を遂げたと伝える。

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