山形県尾花沢市上ノ畑

震災前取材

 

現在延沢銀山の「東山」の跡は、銀山温泉の奥に白銀公園として整備され、坑道の一部が公開されている。現在公開されている「銀鉱洞」は、この東山最大規模の鉱脈で、周囲の岩盤は極めて固く、薪や木炭を燃やして表面を加熱し、水をかけて急冷し、鉱石だけを削ぎとる「焼き掘り」といわれる採掘法をとったといわれ、その跡がはっきりと残っている。

延沢銀山は、康正2年(1456)、金沢の儀賀市朗左ェ門が発見したと云われ、これ以降50年間、銀山の戸数は16000軒にもなったと云う。

その後、一時銀山は閉山となっていたが、天正5年(1577)、この地域を支配していた延沢氏が山形の最上義光に従うようになると、最上氏により銀山は復興され、慶長3年(1598)には豊臣秀吉に銀を上納している。

元和年間、切支丹への弾圧が激しくなると、この地には切支丹が逃れ集まるようになり、元和9年(1623)には、ガルバリヨ神父らは、布教の主力を延沢銀山にそそいだ。

元和8年(1622)に、最上藩が改易になると、延沢氏もこの地を去り、山形城には鳥居氏が二十四万石で入り、この地も鳥居氏の所領となった。鳥居氏も銀山奉公を置くなど積極的に鉱山の開発を進めた。

その後寛永年間(1624~44)に最盛期を向え、当時は佐渡や石見、生野に匹敵する産銀があったといわれる。当時は「出羽の銀山裸でいても、金や宝は掘りしだい、金が欲しけりゃ最上に行けよ、最上銀山金が湧く。」と歌われたと伝えられる。

この頃はこの地は天領になり御公儀山となり、代官陣屋も置かれ多くの人達が鉱山に携わるようになり寺院も48ヶ寺を数えたと云う。寛永12年(1636)には、人口が著しく増加し、食糧難になり御留山の令が出されるほどだった。

その後も採鉱は続けられたが、産銀量は減少し、一時新しく東山を開き盛り返しはしたが最盛時の勢いには至らず、さらに産銀量は減少していった。このような衰退の中、元禄2年 (1689)山の大崩潰が起り、全山廃山となった。

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