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山形県新庄市本合海

震災前取材

 

この地は最上川の中流部よりやや下流に位置し、その流れが八向山の崖にぶつかり大きく流れを変える湾曲部の右岸にある。

古くから川岸集落としての重要性に富み、「合河乃津(あいかわのつ)」として古文書にも見える。奈良・平安時代以前より交通の要衝として栄えていたと推察される。

鎌倉時代には、鎌倉の頼朝に追われた源義経が、平泉に逃れる途中に清川から舟で最上川を遡り、「矢向の大明神を伏し拝み奉り、あひ川の津に着き給ふ」と義経記に記されており、これを裏付けるようにこの地周辺には義経主従に関する伝承が多く残っている。

江戸時代には、大石田とともに、最上川の舟運の拠点として栄え、奥の細道の松尾芭蕉と曽良は、本合海の河岸より、水嵩が増し満々と流れる最上川を 舟で清川まで下り羽黒山に向かったと曽良の随行日記に記載されてある。