山形県新庄市堀端町

震災前取材

 

別名:沼田城、鵜沼城

新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主の戸沢政盛が築いた平城である。創建時の新庄城は、本丸中央に三層の天守閣、三隅に隅櫓、表御門、裏御門を備え、南側に出丸のように小さな二の丸が並列に配置され、役所や米蔵、大手門、北御門が配された。その外側を囲むように三の丸が置かれ多数の侍屋敷が区画された。新庄六万石の、堂々たる近世城郭である。

新庄藩は、最上郡一円と村山郡の一部、六万石(後に八千二百石増)を領した。元和8年(1622)、最上氏が改易されると、最上領は分割され、戸沢政盛は新庄を中心に六万石が与えられ常陸松岡から移った。政盛は当初は真室城(鮭延城)に入ったが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、この地に築城した。戸沢氏は明治に入るまで、十一代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。

慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と敵対した。一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、まもなく新政府軍の反撃に遭い、新庄藩は戦線を離脱し幕府軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩は新庄城を攻め、新庄城は黒煙を吐いて焼け落ち、当時の藩主である戸沢正実は秋田久保田藩へ落ち延びたという。

明治に入り新庄城は廃され、跡地は新庄学校、勧業試験場、招魂社、郡会議事堂などの敷地として利用された。現在、本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は、最上公園として市民に開放されている。新庄城はそのほとんどが失われたが、表御門跡の石垣を残し、戸沢氏の氏神の天満神社は、藩政時代からの姿を残している。

戸沢氏は桓武平氏の流れを汲み、現在の岩手県雫石町の戸沢邑に下向し、地名である戸沢を称したのが始まり。しかし南部氏に攻められ、承久2年(1220)に秋田県仙北市の門屋に移り、その後応永30年(1423)、出羽角館城に移りここを本拠地とした。

戦国期には、「鬼九郎」の異名を取る戸沢盛安は、小野寺氏や安東氏を破り勢力を拡大し、(1590)には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し所領を安堵された。その跡を継いだ戸沢政盛は、関ヶ原の戦い、大阪の陣のいずれも徳川家康に与し戦った。関ヶ原戦後、秋田に減移封された佐竹氏と入れ替わり、常陸に4万石で移された。その後、最上氏が改易になると新庄に六万石で入り、その後明治にいたる。

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