福島県矢吹町中畑

  • 本郭櫓台跡
 

泉川に突出した緩やかな傾斜の畑地帯の丘陵地にある。東西500m、南北550mに及ぶ巨大な城館だったとされ、内郭の規模は東西250m、南北300mほどで、東側は段丘崖で、他の三方は幅20~30mの堀で区画されていたという。内郭は三の郭、二の郭、主郭を南北に連ね、南西端に西郭を設けた4郭構造になっていた。現在は本郭跡とされる、長さ30m、高さ6mほどの櫓台のみが残っており、その他の遺構のほとんどは失われている。

南北朝期の興国年間(1340~45)、三芦城主である石川氏十五代詮持の弟光定の子の石川九郎光幹が築城したとされ、以降中畑姓を称したという。中畑氏は、石川氏と対立する白河結城氏の抑えとしてこの地にあったが、その後石川氏の勢力が衰退し、中畑氏は白河結城氏の支配下に組み込まれていった。

戦国期には白河結城晴綱の庶子上野介晴常が中畑家の家督を相続し、晴常のあとを継いだ上野介晴辰は、天正年間(1573~92)初期、白河結城氏と佐竹氏の抗争が激化すると、要害性の高い観音山館を新たに築き移り、この城は廃された。

周辺には、南都城、西都城、内屋敷、福寿庵、東都城などの城に関係した地名が残る。西に大日堂があり、これが城の守護であり、中畑氏が信仰していたものという。