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福島県金山町横田

震災前取材

  • 山ノ内氏勝の墓
山ノ内氏の始祖の首藤刑部丞俊通は源氏の御家人となり。鎌倉郡山ノ内庄を本領とし、姓を山ノ内と称した。俊通は保元・平治の乱の際に、子の俊綱とともに源義朝に属して奮戦したが、父子ともども討ち死にした。その後、山ノ内氏の惣領となった経俊は平氏へ接近、治承4年(1180)、源頼朝が挙兵したときは平氏に味方し、頼朝が鎌倉に入部したとき、斬罪に処されることになったが先祖の勲功に免じて許された。

以後、経俊は頼朝に従い奥州征伐などに功をたて、備後、陸奥桃生郡、会津大沼郡などに所領を得た。季基のとき、横田の鷹巣山に中丸城を築き本拠とした。山ノ内氏は、野尻、川尻、沼沢、布沢、滝谷、桧原、西方に一族を配し「山内七騎党」と呼ばれる組織により所領を支配した。

戦国期の山ノ内氏は、山間部という立地的条件から侵略の対象とならず、近隣の戦国大名の葦名氏、越後長尾氏と同盟関係を結び、その所領の領有を保っていた。またその一方で、葦名氏、越後長尾氏と対峙していた伊達氏、甲斐武田氏などとも関係をもっていた。山ノ内氏は、葦名氏が会津統一を進めていく中でも、独立した奥会津の領主として存在した。

天文12年(1543)には、葦名氏に対して臣礼をとらない山ノ内氏に対し、葦名盛氏は征討軍を出したが葦名氏は敗れている。しかしながら、当時の力関係はやはり葦名氏が勝っていたようで、当主の山ノ内俊清は隠居し、家督を舜通に譲り、葦名、山ノ内の関係正常化を図ったようだ。

山ノ内氏は、近隣戦国大名に対し、その均衡の中で独立した勢力を保っていたが、惣領制は確固としたものではなく、横田、野尻、沼沢、川口などは横一線に並ぶ存在であったようだ。

永禄元年(1558)、当時の横田当主、山ノ内俊清の二男俊政と三男の俊範が、葦名盛氏の支配下にあった金山谷滝谷村の岩谷城を攻撃して城を奪うという事件が起った。盛氏は激怒し、俊政兄弟を討とうとしたが、山ノ内一族の沼沢氏の取計らいで、兄弟は盛氏の旗下に属することになり征伐は取り止めとなった。これ以降、山ノ内氏は葦名氏に従うようになったと云う。

葦名氏は盛氏の代に大きく勢力を拡大した。しかし、盛氏の隠居後に当主となった盛興がわずか26歳で死去、その跡を継いだ盛隆は殿中で近習のために殺され、生後1ヶ月で擁立された亀若丸も天正14年(1586)死去した。葦名氏は動揺し分裂状態となり、家中は伊達政宗の弟竺丸を迎えようとする伊達党と、佐竹義重の二男義広を迎えようとする佐竹党とが対立した。結局、佐竹義広が迎えられて葦名氏を継いだが、山ノ内氏ら配下の小領主に対する求心力は弱まった。

天正16年(1588)の伊達政宗と葦名義広の間で戦われた郡山合戦の際に、義広からの軍勢の督促に対し、当時の山ノ内氏の当主の氏勝は応じなかった。また、翌天正17年(1589)の葦名氏と伊達氏の摺上原の合戦にも山ノ内氏勝は出陣を遅らせ、戦が決し、葦名義広が常陸佐竹に落ちてから軍を動かし、黒川城に入った伊達氏に服属した。

しかし、結局氏勝は伊達氏に抗戦することを決め、一族の布沢、川口、野尻氏らの服属の主張をしりぞけ本領の横田中丸城に戻った。この一連の行動は、葦名義広との関係が良好だったとはいい難い中での氏勝の政治的な判断によるもので、伊達政宗に対し、これまでの奥会津の支配を認めさせる為のものだったのではないかとも思われるが、定かではない。

結局、伊達政宗は、山内氏一族の服属派を案内に只見川を遡って、山内領に攻め入り横田を落した。氏勝はさらに奥の大塩、水久保両城の天険に拠ることに決し、豊臣秀吉の家臣の石田三成と連絡を取りながら、自らは水久保城に入った。
現在残る三成からの書状には、「北条氏を攻め滅ぼした後はすぐに黒川城に攻め入り、政宗の首を刎ねるので、少し辛抱してほしい。大沼郡伊北の地は山ノ内氏の所領であることは重々承知している。その件については関白様へ言上して許可を得、御朱印をお送りする。」旨が記されていると云う。

やがて、越後の上杉景勝より八十里越えで3千人、六十里越えで1千500人の援軍を得て、伊達氏に抵抗を続けた。政宗は天険の山城に篭る山之内勢を強攻はせず、占領した簗川などの土豪に対して知行を与えて持久戦をはかっていたが、小田原を攻めていた豊臣秀吉の圧力に屈し、小田原に赴き秀吉に降り、会津、仙道の地を返上した。これにより、山ノ内氏勝は、伊達に屈することなく危機を乗り切った。

しかし、天正18年(1590)の奥州仕置において、山ノ内氏は葦名氏の旧臣として豊臣政権に認識され、会津は蒲生氏郷の所領となり、山ノ内氏は上杉景勝被官と見なされ所領は没収された。天険の地を利しながら、奥会津に戦国大名として勢力を張った山ノ内氏は、近世大名として生き残ることはできず没落した。その後の氏勝は上杉氏の家臣となり、その領地越後の魚沼郡上田庄大浦に住し、慶長13年(1608)69歳で没した。

氏勝の死後、一族の多くは会津の地に戻り、帰農したというが、氏勝の子孫は会津松平氏に仕え、氏勝から九代目にあたる知通は会津藩執政となり明治期を迎え、斗南藩少参事となった。