スポンサーリンク

福島県いわき市四倉町玉山字牧ノ下…恵日寺

 

この地の恵日寺には、滝夜叉姫の終焉の地と云う伝承が残る。滝夜叉姫は、滝姫または五月姫とも言われ、出家後は如蔵尼とも呼ばれている。

恵日寺は、大同元年(806)、徳一大師が奥州へ来たり、この地に和州岡本の宮にならって堂を建て直し、仏教を広める拠点として再興したとされる。この地は、平将門の三女の滝夜叉姫の終焉の地と伝えられる。

平将門は、天慶2年(939)国府軍と戦い勝利し、下総国猿島に御所を立て、関八州を手中にし、自ら「新皇」と称した。これに対して朝廷は、4000人の兵を差し向け、関東一円で激しい戦いが繰り広げられ、将門は流れ矢に当たり討ち死にしてしまった。

滝姫と兄の良門は、地蔵菩薩像を背負い相馬に落ち延びた。一族郎党を滅ぼされた滝姫は怨念を募らせ、貴船明神の荒神に願をかけ「丑の刻参り」を行い、満願の二十一夜目に貴船明神の荒御霊から妖術を授けられた。

時は過ぎて、良門と滝姫は下総の国へ戻り、手下を集め朝廷転覆の反乱を起こした。朝廷は滝姫らを成敗する勅命を大宅中将光圀と山城光成に下し、良門は討ち死にし、滝姫も陰陽の術をかけられ敗れた。

白馬に乗った滝姫は、この四倉の恵日寺に逃げのび、寺の傍らに庵を結び、長い髪を剃り落とし尼になった。仏門に入った姫は一心に仏につかえ、肌身はなさず持っていた地蔵菩薩を深く信仰した。

滝姫が寺の裏にある井戸水に自分の顔を映し、明鏡止水の心境になっていたと云い、この井戸は「滝夜叉姫の鏡井戸」と呼ばれている。村人たちは滝姫を「地蔵の尼君」とか「地蔵尼」と呼んで敬うようになったと伝えられる。地蔵尼は80歳を過ぎ天寿を全うした。

滝夜叉姫の伝説は全国各地にあり、磐梯町の恵日寺の山門は、平将門が寄進したとされ 、恵日寺と平将門には、それなりの関連があるとも思われる。

滝夜叉姫は江戸時代、歌川国芳の錦絵に描かれたり小説や戯曲に多く登場し、中でも山東京伝の「善知鳥安方忠義伝」では、滝夜叉姫は妖術 使いとして表れ、歌舞伎としても上演された。滝夜叉姫の伝説は、これらの話に仏教説話も盛り込まれ、布教とともに広がったものと考えられる。