福島県矢吹町畑中

2015/03/24取材

  • 上り口、八幡神社鳥居
 

阿武隈川右岸の標高316mの独立丘に築かれた山城である。比高は約40mで、城の規模は東西約120m、南北約200m。南北に3つの郭を繋げた連郭式縄張りで構築され、周囲は二重の空堀で囲まれている。

主郭は東西約60m、南北約70mほどで、主郭と二の郭間は3~4mの段差で仕切られ、二の郭と三の郭間は空堀で区画され土橋で繋がっている。

主郭と二の郭周りの空堀は、最大幅15mほどもあり、三の郭周りの空堀と合わせ、南側は二重堀になっている。大手虎口は中央東側に設けられ、なだらかな坂道をのぼり折虎口に入るように設定されている。また、館山の南東麓には「根宿」の地名が残り、根小屋が構えられていたと思われる。

天正年間(1573~92)初期、国神城の中畑晴辰により築かれたとされる。中畑氏は三芦城主石川氏の庶流で、初めは白河結城氏を抑えるため中畑に配されたが、その後石川氏が衰退し、戦国期には白河結城氏の支配下に組み込まれ、晴辰の父晴常が、白河結城氏から中畑氏に養子として入った。

白河結城氏と常陸佐竹氏との対立が激化すると、晴辰は要害性の高い観音山に城を築き、国神城から移った。その後、晴辰はタカナシ城を攻略し、観音山館を弟晴時に譲り、自身はタカナシ城に拠点を移した。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに、白河結城氏は参陣せず、所領没収、改易となった。晴時はその後に会津に入った蒲生氏郷に属したが、九戸政実の乱に出陣し討死した。これにより中畑氏は改易となり、観音山館もその頃廃城になったものと思われる。

晴時の子晴倶は、父の戦死後、家臣であった相楽孫左衛門に養育され、須賀川に移り問屋を営み須賀川の駅長になったという。俳句で有名な相楽等躬はその孫にあたる。