福島県二本松市本町一丁目(称念寺境内)

2012/11/01取材

 

畠山二十二代二本松錠識氏は、昭和8年(1933)墓所を改葬し、累代の祖霊と、「栗の須の変」で、義継と運命を共にした家臣23名の霊を祀った。

畠山氏は桓武平氏の流れであるが、鎌倉幕府草創期の武将畠山重忠没後、足利義兼の子義純がその名跡を継ぎ畠山氏を名乗った。

建武の争乱にあたって、畠山一族は足利尊氏に従い軍功を挙げ、貞和2年(1346)、畠山高国は奥州深題に補任されて東下し、その子孫が二本松畠山氏となった。高国は、吉良貞家とともに奥州に下向し、石塔氏に代わり北朝方として、南朝方の伊達、田村氏らと対峙した。

観応元年(1350)、足利尊氏と弟直義との対立から「観応の擾乱」が起こると、奥州では吉良貞家は直義方に付き、畠山高国は尊氏方に与し、翌年正月、宮城県の岩切城で一ヶ月におよび熾烈な戦いが繰り返された。この合戦は結局、畠山方の惨澹たる敗北に終わった。

この戦いで、畠山氏は高国をはじめ、嫡子の国氏らが自害し、畠山氏に味方した留守氏も没落の憂き目にあった。しかし国氏の子の大石丸は安達太良山の奥に逃れた。

その後、畠山大石丸は、再起を期して吉良氏と戦ったが敗れ、海路二本松にのがれた。畠山氏は、二本松の地では一定の勢力を保持したようで、至徳元年(1384)、将軍足利義満は、畠山国詮に宮城県の加美郡と黒川郡の飛び地所領を認めている。

衰えたりとはいえ、畠山氏は奥州管領としての格式を保持していたが、明徳2年()の南北朝合一がなると、斯波大崎氏が奥州探題に任じられ、畠山氏は西安達の地方大名となった。

畠山氏は、国詮の代から二本松支配を本格化させた。国詮は四人の息子たちを領内の各地に分立させ、領国支配を確立せんとした。三男の満泰を後継とし、長男の満国は、川崎村、大将内の城を授かり、勢力を伸ばしつつあった伊達氏に対し、次男の次郎満詮は本宮に城を築き、四男の氏泰は椚山に新城を築きそれぞれ治めた。

国詮のあとを受けた満泰のとき、所領拡大を進め、居城を白旗山に移し二本松城と号し、二本松畠山氏の版図が築かれた。また奥州管領職であったことから将軍家とのつながりも深く、奥州の地において一定の地位を維持した。

しかし戦国期に入ると、南奥州は白河結城氏と伊達氏を軸とする戦国動乱の時代に入った。その中で畠山氏の威勢は次第に衰えていったが、強大化する伊達氏と親密な関係を築いていった。その伊達氏が稙宗の時期、稙宗は嫡子晴宗と対立し天文??年()、天文の乱が勃発した。このころの畠山氏の当主は義氏で、義氏は家臣団の統率に失敗し、家中は晴宗派と稙宗派に二分し争った。

天文16年(1547)に天文の乱がようやく終結したが、この乱に乗じて葦名盛氏と田村隆顕は勢力を拡大し、両社の争いは収まらなかった。畠山氏は、この葦名氏と田村氏の講和を仲介するなど一定の勢力を保ってはいたが、次第に弱体化していった。元亀元年(1570)、義国の時、畠山氏は田村、相馬方に属しており葦名軍の攻撃をうけたがこれを退けた。また同年には伊達家から八丁目城主の堀越宗範が城ごと寝返り、一時的に勢力を盛り返した。しかし天正2年(1574)には、伊達実元、葦名盛興の攻撃を受け、実元に八丁目城を攻め落とされ、畠山氏は八丁目城を実元に割譲し、田村、相馬の傘下から伊達、葦名の傘下に移った。義国は天正8年(1580)に没し、そのあとは嫡子の義継が相続した。

義継が相続した当時の畠山氏は、北に伊達氏、南に葦名氏との間にあり、小大名の悲哀を味わっていた。しかし勢力拡大のため、塩松を手に入れた新興勢力の小浜城主の大内定綱と婚姻を通じて結ぶなどの動きも示している。大内氏は主家石橋氏を滅ぼし田村氏と結び、はじめは伊達氏に服属していたが、やがて、会津の葦名氏や常陸の佐竹氏と通じるようになった。

天正12年(1584)、伊達政宗は18歳で伊達氏十七代の家督を継いだ。このとき、大内定綱は祝辞をのべに米沢城を訪れ、ふたたび伊達氏の傘下に入ることを申し出たが、それを翻し結局葦名氏の傘下にとどまることに決した。政宗はこれに激怒し、定綱の小浜城の出城である小手森城を攻めてこれを「なで斬り」にした。

定綱の元には、畠山氏も岳父の立場から兵を送っており、定綱は小浜城を捨てて畠山氏を頼り二本松に落ち延びた。政宗は二本松城も征伐することを決したが、これに驚いた畠山義継は定綱を放逐し政宗に降伏したが、初め政宗はこれを受け入れなかった。義継は政宗の父の輝宗にとりなしを頼み、二本松周辺の五ヶ村だけの保有を許されはしたが、事実上、大名としては滅亡の危機に瀕したが受けざるを得なかった。

義継は、輝宗の居城にとりなしの礼のために出向いたが、その帰路、義継はやにわに輝宗を拉致して逃亡し、高田原で伊達家臣団に追い付かれ混乱の中で輝宗とともに死んだ。

怒った政宗は、ただちに二本松城に押し寄せた。畠山氏は、本宮、玉井、渋川の人数がすべて二本松城に集結し、譜代の家臣らが義継の遺児国王丸(のち義綱)たて、近隣の反伊達諸豪の応援も受けて籠城した。これを機に反伊達連合軍が動き始め、佐竹義重を中心とし、葦名、磐城、石川、白河の諸氏が三万の大軍をもって須賀川に集結した。

戦いは圧倒的多数の兵を動員した連合軍が優勢であり、「人取橋の合戦」では、伊達勢は壊滅寸前まで追い込まれたが、佐竹領に江戸氏や里美氏が侵攻したという知らせにより、その夜、佐竹氏は兵を引き揚げた。これにより、二本松の落城は時間の問題となり、畠山氏は相馬義胤の仲介を入れ二本松城を無血開城し、城主の畠山国王丸らは本丸に火を放ち、会津の葦名氏を頼って落ちた。

その後、葦名氏が摺上原の合戦で敗れると、国王丸は常陸の佐竹氏をたよった。しかし天正17年(1589)、常陸において葦名盛重(義広)のために殺害されたと伝えられ、理由は定かではないが修道のもつれとも言われている。ここに、奥州の名門畠山氏の嫡流は断絶した。畠山氏の一族の本宮氏は伊達氏に仕え、江戸時代になると準一家の処遇を受け、子孫は仙台藩士として続いた。

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