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福島県福島市平石
文治5年(1189)、鎌倉の源頼朝は、平泉を征討すべく奥州平泉に向かった。平泉軍は、藤原国衡を総大将とし、阿津賀志山に陣を敷いた。
泰衡の郎従で、源義経に従った佐藤嗣信、忠信の父である、信夫佐藤庄司基治は、この石那坂の上に陣を構えたとされる。
石那坂の戦いには、後にこの地に所領を得た伊達氏の祖の、常陸入道念西とその子息4人が差し向けられ、佐藤基治は討ち取られ、首を阿津賀志山経岡に晒されたと伝えられる。
この地には、「石那坂古戦場碑」が建てられているが、これは、明治時代にこの辺りから刀剣や甲などが出土したため、この地の有力者が建てたものである。しかし、出土した刀剣や甲は古墳時代のものとわかり、またこのあたりは古墳であることが後年判明した。
この地の地名が「石名坂」であることと、頼朝軍が通った奥大道の位置関係から、福島市南部にあるこの地を古戦場と考えることはできるが、この地を佐藤基治が戦った古戦場と考えるには無理があると思われる。
まず、この地の鎌倉軍の進路は下り坂となり、基治軍は右側面となる。このため、下る敵に対しての側面攻撃の形になり、上り来る敵に対して上方から攻撃する、当時の戦いの定法からは外れることになる。また、阿津賀志山に陣を敷く平泉本隊からかなり離れた位置にあり、全くの孤軍となる。わざわざ、要害堅固で阿津賀志山にちかい、本拠城の大鳥山城を出て戦う意味が見いだせない。
吾妻鏡によると、鎌倉軍は8月7日国見に到着、8日に阿津賀志山合戦、石那坂合戦を行っている。信夫佐藤庄司は、逢隈河に流れ込む河川を堀として、「石那坂」の山上に陣を構え、常陸入道念西の子息らは秋風茂る草原の中を潜行し、「伊達郡沢原」に進出。先ず登り矢石を発して侵攻、石那坂を陥落させたとある。
飯坂はかつては「石那坂」と呼ばれていたとする説もあり、また、大鳥城は阿武隈川の支流である、小川、赤川、摺上川に囲まれており、阿津賀志山に隣接する地である。
このように考えると、佐藤基治は、大鳥城に籠城して戦ったと考えれば、藤原国衡の本体とも連携することが容易であり、妥当と考えられる。
石那坂合戦に功のあった、常陸入道念西は伊達郡を与えられ、子孫は伊達氏を称するようになる。一方、敗れた佐藤基治は、首を討たれ、阿津賀志山にさらされたとされるが、許されて所領へ戻ったという説もある。しかし、佐藤氏はその後も信夫郡北部を領有しており、完全に滅亡したわけではなく、佐藤氏は室町時代初頭に将軍足利尊氏より伊勢国一志郡を与えられてそこに本拠を移した。