福島県福島市土湯温泉

震災前取材

  • 小峠戊辰古戦場
    土湯方向
 

福島市土湯から鬼面山に差し掛かる手前に「小峠」があり、この峠で慶応元年(1865)4月18日に、仙台藩の瀬上主膳率いる藩兵800名と、筑州藩50名を加えた850名の兵がこの地に陣を築き、大峠の山頂で待ち構える会津藩と交戦した。

戦いは数時間に及び、撃ち合う大砲の煙はもうもうと立ち込めて空を覆い、戦いは数時間に及んだが、夕暮れになっても勝敗は決まらず、両軍は互いに兵を退き戦いは終わった。

しかし、実際にはこの戦いは両軍の指揮官同士が密議を行い、新政府軍を欺くための虚偽の戦いだったという。

新政府は、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣していた。鎮撫使は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫り、仙台藩はやむなく会津藩境に出兵した。しかしこの間、仙台藩、米沢藩等は会津藩の赦免に動いており、会津藩と接触をもち、謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。このため、両軍とも戦う意思は全く無く、空砲を撃ち合っただけで、1人の死傷者もなかったと云う。

その後、会津藩は一旦は恭順降伏を認めたものの、武装解除での恭順は拒否し、また奥羽列藩の、会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出したが却下された。また、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵の密書が、仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡り、その中の「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、現在の福島市の金沢屋において世良修蔵を襲撃し処刑した。これにより、奥羽の地は一気に東北戦争へとなだれ込んでいく。

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