2012/10/31取材

福島県会津若松市米代一丁目

 

山本覚馬は、会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男としてこの地で生まれた。山本家の遠祖は、甲州流軍学の山本勘助とされる。

藩校日新館に学び頭角を現し、22歳で江戸に遊学し、勝海舟らとともに佐久間象山の塾に入った。その後、蘭学や洋式砲術を学び、28歳でいったん会津に戻り日新館教授となった。藩では、軍制改革を訴えて、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢された。文久2年(1862)、京都守護職に就任した藩主松平容保に従い京に上った。

元治元年(1864)、禁門の変では、砲兵隊を率いて参戦し勲功を挙げ、公用人に任ぜられた。これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるが、眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になった。

戊辰戦争直前の慶応2年(1866)には、長崎で鉄砲の購入交渉を行い、紀州藩に3,000挺、会津・桑名藩に1,300挺の購入に成功した。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いに際しては京に残り、薩摩藩に捕われたが、薩摩藩も覚馬の人物の優秀さを知っており、粗末に扱うことはなく、明治元年(1868)、仙台藩邸の病院に移され、翌年釈放された。

その後覚馬は、明治3年(1870)、京都府大参事の推挽により京都府庁に出仕、権大参事の顧問として府治を指導した。小中学校、女学校、病院、医学校などの設立に尽力するなど、京都の近代化に大きく寄与した。また明治5年(1872)には、日本で最初の「内国勧業博覧会」を開催した。

明治8年(1875)頃、にちに妹八重と結婚する新島襄と知り合い、彼の学校設立計画を知り、協力を約束した。覚馬は、維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に譲渡、次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可された。設立された同志社英学校は、その後同志社大学に継承された。

その後は、最初の府会議員の一人となり、初代議長にもなった。また同志社を軸に活動し、明治18年(1885)には、京都商工会議所会長に就任した。新島が他界すると、同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力し、明治25年(1892)、64歳で没した。

新島八重は、弘化2年(1845)、会津藩の砲術師範であった山本権八の子として誕生した。兄は山本覚馬である。

慶応4年(1868)に会津戦争が始まると、断髪、男装して、家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した。敗戦後、捕虜となった夫尚之助と生き別れとなり、その後離婚した。

明治4年(1871)、京都府顧問となっていた兄の覚馬を頼り上洛、翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長、教道試補となった。

この頃、兄の元に出入りしていた準宣教師の新島襄と知り合い、明治8年(1875)に婚約した。当時、新島はキリスト教主義の学校建設に奔走していたが、これに対して京都の僧侶、神官たちは連日のように抗議集会を開き、京都府知事や文部省にも嘆願書を提出するなどしていた。このため京都府は、婚約直後に八重を女紅場から解雇した。

明治9年(1876)新島と再婚した八重は、女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。襄は、欧米流のレディファーストが身に付いており、車にも夫より先に乗る八重は、世間からは「悪妻」と評された。しかし夫婦仲はとても良く、夫の襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「彼女の生き方はハンサムなのです。」と書いている。

八重は、明治9年(1876)、アメリカン・ボードの宣教師と共に、同志社女学校(後の、同志社女子大学)を開設した。夫の襄は、明治23年(1890)病気のため急逝した。襄の死後、八重は襄の門人たちと性格的にそりが合わず、同志社とは次第に疎遠になっていったようだ。

襄の死から間もない明治23年(1890)、八重は日本赤十字社の正社員となり、明治27年(1894)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍し、40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904)の日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された。

八重は多くの功績により、昭和3年(1928)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されたが、その4年後、86歳で没した。